「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。かならず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」 マラキ書3章10節

 マラキ書3章は、旧約聖書最後の章です。

 1節に「見よ、わたしは使者を送る」と言います。この「使者」は「マルアーキー(my messenger)」という言葉で、1章1節の「マラキ」と同じ言葉です。つまり、「見よ、わたしはマラキを遣わす」と訳すことも出来ます。確かに主はマラキを使者としてイスラエルの民に遣わしておられます。

 その後に、「あなたたちが喜びとしている契約の使者がやって来る」と言います。「契約の使者(マルアフ・ハッブリート)」は、「あなたたちが待望している主(アドーン)」とも呼ばれます。最初の「使者」は「契約の使者」の道備え、「待望の主」の到来を告げ知らせるため、遣わされるということでしょう。

 イスラエルの民は契約の使者の到来を喜びとし、待望しているのかも知れませんが、その使者は彼らが期待するメッセージを伝えてくれるでしょうか。というのも、「彼の来る日にだれが身を支えうるか。彼が現れるとき、誰が耐えうるか」(2節)と言われているからです。

 この後の文言を考えると、「待望している主」、「喜びとしている契約の使者」とは、皮肉を込めた表現と考えざるを得ません。2章17節に「裁きの神はどこにおられるのか」とイスラエルの民が言っているとされていますが、イスラエルの民がその到来を期待していなかったというか、存在を信じていなかった「裁きの神」として、待望の主、契約の使者が来られるということです。

 「裁きの神」(エロヘーイ・ハッミシュパート)は、精錬する火としてレビの子らを清め、金銀のようにその汚れを除きます(3節)。それは、彼らが献げ物を正しく献げる者となるためであり、主を正しく礼拝するためです。

 5節に「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する」と言われます。この「裁き」も「ハッミシュパート:the justice)で、律法に背いて呪術を行い、姦淫し、偽り近い、雇い人の賃金を不正に奪い、寡婦、孤児、寄留者を苦しめ、主を畏れぬ者らを告発して、イスラエルに正義を確立されるのです。

 新共同訳聖書は、6節以下の段落に「悔い改めの勧告」という小見出しをつけています。そして7節に「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると、万軍の主は言われる」と記されています。聖書の告げる悔い改めとは、主なる神に立ち帰ること、主の御言葉に耳を傾け、その声に従うことです。

 十分の一の献げ物と献納物において、神を偽っているという告発が、8節にあります。即ち、神のものを盗んでいるというのです。レビ記27章30節以下、申命記14章22節以下に、すべての収入の十分の一を神に献げるようにと命じられています。

 十分の一を献げることになった原点は、アブラハムがいと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクに対して、取り戻したすべての財産の十分の一を贈ったというところでしょう(創世記14章20節)。また、ベテルで祝福の約束を受けたヤコブが、約束が成就した暁には、十分の一を献げるという誓願を立てています(同28章30,31節)。

 イスラエルの民が献げた「十分の一」は、レビの子らの嗣業として与えられます(民数記18章21,24節)。それは、彼らが嗣業の土地を持たないからと説明されています(同23,24節)。

 そしてレビの子らは、嗣業として受けた十分の一を主への献納物とします(同26節)。そしてそれは、祭司アロンに与えられます(同28節)。主への献納物とするのは、執行として行けたものの中の最上のもの、聖なる部分を選ばなければなりません(同29節)。このような規定があるということは、レビ人たちがそれに誠実でなかったのではないでしょうか。

 また、イスラエルの民が献げる「献納物」とは、祭司やレビ人たちの生計のために分けられる「奉納物」,「礼物」と言われる雄羊の献げ物の一部分で(出エジプト記29章26節以下)、「イスラエルの人々が主に対する献納物として,和解の献げ物のうちから献げる物である」(同28節)と規定されています(レビ記7章32~36節、民数記5章9節など参照)。

 「十分の一の献げ物と献納物において」主のものを盗んでいたのは(7節で「偽る」と訳されたカーバーは、「盗む、奪う」という語)、1章、2章の記述からすれば、イスラエルの民だけでなく、祭司たちも同様でしょう。祭司を筆頭にすべての民が「掟」(ホーク:定め、掟、律法)と言われる主の教えを守っていなかったのです。

 彼らがそれを守れなかったのは、理由のないことではなかったと思われます。というのは、冒頭の言葉(10節)に「天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐ」と記されているからです。そのことから、その当時は天から雨が降らず、旱魃による不作が続いていたのではないかと想像されます。

 また11節には、「食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにする」とありますから、イナゴなどの害虫による被害に絶えず見舞われていたのでしょう。旱魃にイナゴの害、まさに泣き面に蜂の状態です。

 そのような状況の中で食うや食わずの生活をしているような人々が、わずかに収穫できたものや、次期の収穫に備えて蓄えているようなもの、また、家畜の産んだ初子などを主なる神の前に携えて来るのは、言うほど容易なことではなかったと思います。

 しかるに主は、冒頭の言葉(10節)のとおり、十分の一と献納物は主のものだから、まず主の家の倉に納めよ、そうすれば、旱魃や害虫などによる被害から守ろう、そのとおりになるかどうか試してご覧と言われるのです。

 主イエスが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタイ福音書6章25節)、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同33節)と教えておられます。

 これらの御言葉で語られているのは、神とその御言葉を信じるかということです。神の愛に対する信頼があれば、その言葉に従うことが出来るでしょう。そうすれば、大きな恵みを味わうことが出来るというのです。

 ダビデ王が、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23編4節)と語ることが出来たのは、「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴う」(同1,2節)羊飼いなる主への信頼、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えて下さる」(同5節)という信仰があったからです。

 すべてのものは神のものです。確かに、収入は自分の労働に対する報酬で、どのように使おうと個人の自由でしょう。けれども、働くために必要な知恵や力、健康、そして職場があることなどは、報酬ではありません。家族があること、家庭の暖かい交わりも、報酬ではありません。

 十分の一の献げ物と献納物を主にささげるのは、すべてが主の所有物であると信じることです。そしてまた、主の豊かな恵みに対する感謝と喜びを表明することでもあります。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント書8章9節)。

 いつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように,あらゆる恵みをわたしたちに満ちあふれさせることがお出来になる方に信頼し(同9章8節)、喜びと感謝をもって主の教えに聴き従いましょう。

 主よ、私たちはあなたの恵みによって常に守られ、支えられています。ご自身の栄光の富に応じて,キリスト・イエスによってわたしたちの必要をすべて満たしてくださる主の御言葉に従い、献げることにおいても豊かな恵みを味わうことが出来ますように。 アーメン