「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」 ゼカリヤ書12章10節

 ゼカリヤ書後半部(9章以下)で、第二の託宣が記される12章以下14章までを第三ゼカリヤと呼びます。12章には、「エルサレムの救いと浄化」という小見出しがつけられています。

 主は、「わたしはエルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる」(2節)と言われました。エルサレムが全世界の民に包囲されます。周囲のすべての民のエルサレムに対する敵対心は、神に対する反抗であることを示しています。

 しかし、主なる神に反抗することは、おのが身に主の裁きを招くことです。「その日、わたしはエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う」(3節)とは、そのことです。

 エルサレムを取り巻く民の中にユダの人々もいます。主は、ユダの人々の目を開かれました(4節)。すると、彼らは「エルサレムの住民はわれらの神、万軍の主のゆえに、わたしの力だ」(5節)と心に言います。エルサレムに反抗する群れの中にいたユダの民が、エルサレム側に寝返ったかたちです。

 主はユダの民を薪や松明のようにして、エルサレムを取り巻く周囲の人々に燃え移らせ、すべてのものを焼き尽くさせます。さながら、豊臣方(西軍)であった小早川秀明が徳川方(東軍)に寝返り、大谷吉継隊に攻めかかり、壊滅させたことで戦況は東軍優位に傾き、関ヶ原の戦いは一日で決着してしまったといった状況を思い浮かべます。

 これは、主なる神がご自分に敵対するものをすべて打ち滅ぼそうとしておられるのではなく、滅びを刈り取ることのないように、ご自分のもとに立ち返るよう呼び掛けておられるということではないでしょうか。だから、ユダの家の人々の目が開かれるようになさったのです。

 10節以下には、エルサレムの住民への言葉が記されています。まず、冒頭の言葉(10節)のとおり、「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」と言われます。そうすると、「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」というのです。

 ダビデの家とエルサレムの住民が主なる神を刺し貫いたとは、主が遣わした預言者を殺したということであり、それによって主を刺し貫こうとしたのだと言われているわけです。そこで、憐れみと祈りの霊が注がれて、彼らはおのが罪に気づかされ、その愚かな業を嘆き悲しむのです。

 11節に「その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる」と記されています。メギド平野とは、メギドから東に広がるイズレエル平野のことでしょう。メギドは交通の要衝で、軍事的にも商業的にも重要な場所でした。ソロモンはこの地の戦略上の重要性を考えて、強力な要塞都市を建設しました(列王記上9章15節)。

 メギドにおける嘆きで思い起こすのは、神殿修復の際に発見した律法の書に従い、徹底的な宗教改革を行ったヨシヤ王が、エジプトのファラオ・ネコと戦って殺された場所だということです。

 もしも、ヨシヤ王がここで戦うことを回避していれば、そして、長く生きて宗教改革を徹底していれば、国の行く末は違ったものになったかも知れません。そのことを嘆く声が高く上がったように、エルサレムにおいて大きな嘆きが起こるということです。

 「ハダド・リモンの嘆き」とありますが、「ハダド」は「雷・嵐」を意味するアラムの神です。「リモン」は「吠え掛かる者」というアッカド語に由来する名で、 エリシャにより重い皮膚病を清めてもらったナアマン将軍が、「わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」(列王記下5章18節)と言います。リモンもアラムの神なのです。

 「ハダド・リモン」とは、ハダドとリモンが同一視されていたということでしょう。「メギド平野におけるハダド・リモンの嘆き」ということは、ハダド・リモンを祀る聖所か祠がメギドの傍にあったということでしょう。ヨシヤの宗教改革のさなか、ハダド・リモンを祀る聖所がメギドの傍にあったということは、主に反抗し、主の胸を刺し貫く行為がなされていたわけです。

 そのことを嘆く声が、ヨシヤ王を悼んで嘆くよりもさらに高く大きく、エルサレムで上がるということです。その声は、部族ごと、氏族ごと、男女別々に上げられると言われます。それは、その嘆きが公式発言としてなされるというより、一人ひとり個人的な痛み、嘆きとして声が上げられているということなのでしょう。ゆえに大きな嘆きになっているのです。

 「ダビデの家の氏族」とは、ダビデ王家のことでしょう。「ナタンの家の氏族」とは、ダビデに仕えた宮廷預言者言ナタンに遡る家系ということです(サムエル記下7章2節以下、12章1節以下参照)。

 続く「レビの家の氏族」がどの氏族のことをいっているのかというところですが、その後に「シムイの氏族」とあり、シムイはレビの長男ゲルションの一氏族(民数記3章21節参照)です。

 こうしてみると、ダビデ王家とという政治的指導者と、ダビデに仕えた預言者ナタンの子孫とレビ家の子孫という宗教的指導者とが、それぞれに分かれて嘆くと言っています。彼らがエルサレムの民に罪を犯させ、主に背いてその胸を刺し貫くような愚かな振る舞いに及んだので、北はアッシリア、南はバビロンに滅ぼされ、捕囚とされるという結果を招いたわけです。

 おのが罪に気づき、嘆き悲しむとは、悔い改めの表現です。悔い改めとは、後悔するというよりも、方向を転換することです。背を向けていた神に顔を向けること、耳を閉ざしていた神の御言葉に耳を傾けること、背いていた神に従うようになることです。 

 ここに言われる独り子を失った嘆き、初子の死の悲しみとは、イエス・キリストの死を指しています。ヨハネ福音書19章37節に、「また、聖書の別のところに、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」とあります。これは、十字架のイエスがやりでわき腹を刺されたのは、ゼカリヤ書12章10節の預言が実現したことだと言っているのです。

 つまり、自分たちの罪のために死なれた神の独り子イエス・キリストの死を見つめて、彼らは嘆き悲しむ、即ち、悔い改めをするということです。民が悔い改めて神の下に帰ってくること、それが神の計画なのです。これこそ、偽りの神々の策略に対するまことの神の勝利なのです。

 憐れみと祈りの霊を注がれて、悔い改めに導かれた民は、自分の罪を悔い、悲しむと共に、その罪を自ら背負い、死んでくださった主イエスの贖いに心から感謝することでしょう。さらに憐れみと祈りの霊は、十字架につけられたキリストを宣べ伝える伝道の力、証しの力を与えるでしょう(使徒言行録1章8節、第一コリント書1章23節、2章2,4節)。

 主の霊は私たちの内に住まい、私たちを神の神殿、聖霊の宮とされます(第一コリント書6章19節)。主の霊の働きによって、自由にされます(第二コリント書3章17節)。顔の覆いが除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます(同18節)。

 私たちを神の子とし、神を「アッバ、父よ」と呼ばせてくださいます(ローマ書8章15,16節)。神の子として天の御国を受け継ぐ保証となってくださいます(エフェソ書1勝13,14節)。私たちのために呻きをもって執り成し、万事が益となるようにしてくださいます(ローマ署8章26,28節)。

 霊的な賜物をお与えくださいます(第一コリント書12章1,4節)。一人一人に霊の働きが現れるのは、教会全体の益となるためです(同7節)。そして、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という霊の実を結ばせてくださいます(ガラテヤ書5章22,23節)。

 絶えず聖霊に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いましょう。

 主よ、私たちの霊の目を開き、私たちがどこにいるのか、何をしているのか、気づかせてくださいますように。偽り、背きの罪を離れ、真理の神に立ち返ることが出来ますように。御言葉と御霊によって内なる人を清め、キリストの贖いという尊い代価を払って買い取ってくださった私たちの体で、神の栄光を現すことが出来ますように。 アーメン