「わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。」  ゼカリヤ書11章12節

 11章は、10章に続いて羊飼いについての言及があります。新共同訳聖書では、4節以下の段落に「悪い羊飼い」という小見出しをつけています。レバノンの杉、見事な大木、バシャンの樫の木、人を寄せつけなかった森は(2節)、いずれも称賛の言葉ではなく、人の高ぶりを示す預言者的な表現です。ゆえに、焼き尽くされ、荒れ果て、倒されるのです。

 3節の「見事な牧場」という言葉について、原語に「牧場」という言葉はなく、「栄光、輝き、威厳」(アッデレト)という言葉が、「羊飼いたちの泣き叫ぶ声」という言葉からの類推で「見事な牧場」という訳語になったわけです(岩波訳脚注参照)。口語訳は「栄え」と訳し、新改訳は「ヨルダンの密林」との関連で「みごとな木々」と訳しています。

 いずれにせよ、ユダの指導者たちの高ぶりによって国が破壊されること、住処を荒らされて獅子が吠えるように(3節)、主なる神の裁きが羊飼いたるユダの指導者たちの上にふりかかり、泣き叫ぶことになると告げられているのです。

 羊飼いは、牧草のあるところや飲み水のある泉などへ羊を導き、羊を養い育てるという務めをします。羊は弱い動物で、ユダの荒れ野において、羊飼いなしに生きることはなかなか困難です。そして、羊は自分がよい羊飼いになることは出来ません。

 また、羊を憐れまない羊飼いが(5節)、良い羊飼いであるはずがありません。ここで預言者ゼカリヤは、王や祭司など政治的、宗教的な指導者たちのことを羊飼いと呼び、イスラエルの民を羊と呼んでいます。

 5節の「買い取る者」は異国の王で、イスラエルの民を奴隷とするということでしょう。「罪を着せられず」というのは、彼らがイスラエルの民を裁く道具として用いられるからです。羊を売るのは、羊を食い物にする悪い羊飼いで、私腹を肥やすためにそうしていると言われます。

 良い羊飼いは、絶えず羊のことを心にかけます。羊飼いは、「好意」と「一致」という二本の杖を手に持っています(7節)。好意は、小さい者に関心を払い、契約を結んで神の民とし、彼らに恵みを与えようとすることです。また、一致とは、分かれているものが一つになることです。そして、良い羊飼いは、悪い羊飼いを取り除きます(8節)。この良い羊飼いとは、主なる神のことです。

 9章16節で「彼らの神なる主は、その日、彼らを救い、その民を羊のように養われる」と言い、10章3節には「万軍の主は御自分の羊の群れ、ユダの家を顧み、彼らを輝かしい軍馬のようにされる」とあり、同8節にも「わたしは彼らを贖い、口笛を吹いて集める。彼らはかつてのように再び多くなる」と記されています。

 ところが、羊たちが良い羊飼いを好むとは限りません。ここではむしろ、悪い羊飼いを退けた良い羊飼いを嫌っています(8節後半)。良い指導者よりも自分たちにとって都合のよい指導者を、まことの神、主よりも、自分たちの欲望を満たす偽りの神々を慕うのです。

 そのため、良い羊飼いに見限られ、「わたしはお前たちを飼わない。死ぬべき者は死ね。消え去るべき者は消え去れ」(9節)、「わたしは『好意』というわたしの杖を取って折り、諸国の民すべてと結んだわが契約を無効にした」(10節)と言われます。即ち、神の支配から切り離されて、バビロン捕囚の憂き目を見ることになったわけです。

 14節には「わたしは『一致』というわたしのもう一つの杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りを無効にした」という言葉があります。これは、ソロモン王の罪により、イスラエルが、北と南に分断されたことを示しています。「国が内輪で争えば、その国は成り立たない」(マルコ3章24節)と主イエスが教えられたとおり、主なる神との契約が無効にされて、滅亡への道を突き進んでしまったわけです。

 冒頭の言葉(12節)に「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を払え」とあります。羊が羊飼いに賃金を払うというのは、前代未聞の出来事ですが、「好意」という杖が折られた後、即ち契約を無効にした後に賃金を支払うというのですから、賃金が支払われて契約解除、謂わば解雇金といったものです。「支払わない」となれば、懲戒解雇を意味するといってよいでしょう。

 そして、銀30シェケルが量り与えられました。主がゼカリヤに「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を」(13節)と言われるので、彼はそれを取って、鋳物師に投げ与えました。

 銀30シェケルは、イスカリオテのユダに支払われた、主イエスを売り渡す代価でした(マタイ福音書26章15節)。後にユダは後悔して、銀貨を返そうとし(同27章3節)、神殿に投げ込みます(同5節)。祭司たちはそれで陶器職人の畑を買いました(同6,7節)。ここに、ゼカリヤの預言が成就したのです。

 主イエスは、自分を殺そうとする者のために執り成して祈り、神に罪の赦しを請いました(ルカ福音書23章34節)。そして、十字架で贖いの死を遂げられました。主イエスこそ、実に「羊のために命を捨てる」良い羊飼いなのです(ヨハネ福音書10章11節)。

 私たちは、良い羊飼いなる主イエスに、「好意」と「一致」の杖で導いていただきましょう。主が共におられれば、災いをおそれることもありません。その杖が私たちに力を与えるからです(詩編23編4節)。

 主よ、元来あなたの囲いの中にいなかった私たちをもその群れに加えてくださり、恵みと平安にあずからせて頂くことが出来たことを、心から感謝致します。絶えずあなたの御声を聞かせてください。永遠の命の御言葉に常に耳を傾けます。あらゆる誘惑や罠から私たちを守ってくださり、死に至るまで忠実に歩ませてください。 アーメン