「彼らは苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ。ナイルの深みはすべて干上がり、アッシリアの高ぶりは引き降ろされ、エジプトの王笏は失われる。」 ゼカリヤ書10章11節

 1節に「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる」とあります。この言葉は続く2節で「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい」と語られている言葉との関連で、収穫をもたらす雨をだれに祈り願うのかと、イスラエルの民に訴えているのです。

 「テラフィム」は、創世記31章19節で「家の守り神」と訳されています。士師記17章5節の表現では、主なる神のこととして礼拝しています。しかし、サムエル記上15章23節では「偶像」と訳されています。ここに、はっきり主なる神と区別されたわけです。

 2節の「テラフィム」は、偶像の代表のようにして語られています。そして、テラフィムを初めとする偶像に依り頼んで雨を祈り求めること、また占い師に将来の夢幻を尋ねるのは、真の神に依り頼まず、人の作った偶像や、占い師など偽りの指導者に道を求める人々は、羊飼いのない羊のように空しくさまようことになるのです。

 ソロモン王以後、イスラエルは異教の神々を慕い求めて道を誤り、まことの神を悲しませました(列王記上11章)。その結果、国は分裂し(同12章)、そして、亡国と捕囚という塗炭の苦しみを味わわなければなりませんでした(列王記下17章、25章)。

 国を再建するにあたり、あらためてその信仰を問い、主に恵みを祈り求めよというのです。そして6節で「わたしはユダの家に力を与え、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す。彼らはわたしが退けなかった者のようになる。わたしは彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ」と約束されました。

 ここで「ヨセフの家」とあるのは、ヨセフの子はマナセとエフライムで、特にエフライムの子らは北イスラエル王国を代表する中心的な部族となりましたので、ここでは北イスラエル王国のことを表しています。つまり、「ヨセフの家を救う」というのは、北イスラエルを救うということです。

 北イスラエルは、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、民はアッシリアの各地に散らされました(列王記げ17章6節)。主なる神は、バビロンの捕囚となったユダの民だけでなく、アッシリアの捕囚となった北イスラエルの人々をも、「わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す」と言われるのです。

 「彼らはわたしが退けなかった者のようになる。わたしは彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ」ということは、かつて彼らはその罪のゆえに主を怒らせましたが、亡国と捕囚の苦しみの中で主を求めたゆえに、主が憐れみをもってその祈りに答え、捕囚の地から贖い出してくださるというのです。 

 冒頭の言葉(11節)で「苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ」というのは、出エジプトの出来事を思い起こさせるものです。かつて主なる神は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、エジプト軍に追撃される絶体絶命の危機にあって悲鳴を上げたとき、葦の海(紅海)を二つに分けて、乾いた地を行くように民を対岸へ逃れさせました(出エジプト記14章)。

 それからの40年間の荒れ野の生活でも、民はたびたび苦難や危機を経験しましたが、そのたびに主は民を守り、助けました(申命記29章参照)。そのようにして彼らは信仰の養いを受け、約束の地カナンへ導き入れられて、国を建てることが出来たのです。

 ユダとイスラエルの民がエジプトの地から帰り、アッシリアから呼び集められるというのが(10節)、第二の出エジプトとしてここに語られているということは、彼らのために主の守りと助けが用意され、国を再興することが出来ると約束されているのです。

 勿論それは平坦な道ではありません。冒頭の言葉のとおり、彼らの前に苦しみの海、波立つ海があって、彼らの行く手を遮っているのです。けれども、民は海を渡ることが出来ます。遮る海を打つことが出来ます(4章6節以下も参照)。

 ここでいう海とは、葦の海などではなく、様々な苦しみ、試練を指しているようです。その苦難を通して開かれる恵みの世界があること、その試練を通らなければ味わうことが出来ない信仰の世界があるということを教えられます。

 苦しみがあれば神に訴え、悲しみがあれば神に嘆き、呻いて祈りを捧げます。そして、訴え、嘆き、呻いてささげた祈りが神に聞かれ、やがて喜びや感謝の賛美に導かれる恵みを味わうのです。こうして、私たちの主なる神は、慰めと希望の源なるお方であり、どんなマイナスもプラスに変えてくださるお方であるという信仰に導かれてゆきます(ローマ書15章5,13節、8章26,28節)。

 主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖を向こう岸に向かっている時、何度か嵐に遭遇しました。しかし、どんな嵐が襲って来ても、向こう岸に渡ることが出来ました。それは、弟子たちの信仰のゆえなどではなく、向こう岸に渡ることが主の御旨だからであり、そして、主イエスが弟子たちと共におられたからです(マルコ福音書4章35節以下など)。

 どんなときにも思い煩わないで、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けましょう。あらゆる人知を超える神の平和、平安が、私たちの心と考えをキリスト・イエスによって守ってくださいます(フィリピ書4章6,7節)。主を信じ、御言葉に立って前進させていただきましょう。

 主よ、あなたこそ真の羊飼いであられ、深い憐れみをもって私たちを命の道に導いてくださいます。苦しみの海を通ることがあっても、あなたが私たちと共にいて波立つ海を打たれ、私たちは主にあって力を受けます。私たちは主の御名において歩み続けます。その恵みと慈しみのゆえに心から感謝します。いよいよ御名があがめられますように。 アーメン