「あなたたちのなすべきことは次のとおりである。互いに真実を語り合え。城門では真実と正義に基づき、平和をもたらす裁きをせよ。」 ゼカリヤ書8章16節

 8章は、バビロン捕囚から帰還したユダの民によって神の国イスラエルを再興されることが約束され、イスラエルを祝福する預言の言葉です。その中で、「勇気を出せ」、「恐れてはならない」(9,13,15節)と繰り返し言われます。

 これは、同時期に活動した預言者ハガイも語っていたところでした(ハガイ書2章4,5節)。そこには、帰国を果たすことは出来たものの、神殿を建て直し、エルサレムの都を復興するまでには、なお多くの困難があるということが伺えます。

 8章の主の言葉が、7章1節と同時期(「ダレイオス王の第4年」)のものであれば、神殿の工事が終わるまでまだ2年もかかります(「この神殿は、ダレイオス王の治世第6年のアダルの月の23日に完成した」エズラ記6章15節)。

 主なる神は復興されるエルサレムについて、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる。それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく」(4,5節)と言われます。

 ということは、帰国した民の中には、老爺や老婆、わらべやおとめが殆どいない、いても数が極めて少ないということを示しています。それは、バビロンからエルサレムまで長距離を旅し、荒れた町を復興するのは困難だからであり、高齢者や幼子を抱えた世代の人々は、生活が不安定になることを望まないからです。

 そう考えると、バビロンから帰国したのは、若者が中心であったと言ってよいでしょう。高齢者が座し、幼子の声が満ちるというビジョンを通して、神は、神殿や城壁などといった建造物だけでなく、あらゆる世代が町に住む社会全体の復興を約束して、苦難の中にいる帰国の民を励ましているのです。

 そして、国を建て直すのに必要なのは、「真実」(エメト)と「正義」(ミシュパート:公正)に基づき、「平和」(シャローム)をもたらす「裁きを行え」(シャーファト)と、冒頭の言葉(16節)で語られています。それは特に、7章10節に語られていたとおり、やもめや孤児、寄留者、貧しい者らに対して示されなければならないものです。

 昔も今も、国の為政者によって真実が歪められ、不正が行われ、そのために国民、特に弱い立場にいる人々が苦しめられるという構図には、変わりがありません。森かけ問題も桜を見る会の問題も、政府は真相が明らかにしようとはしません。

 沖縄に米軍基地の74%が集中しているというのは、数字の読み方に偏りがあります。米軍が占有している基地の面積は、全国で1028㎢、そのうち沖縄は229㎢、全体の22.7%です。しかし、沖縄本島に占める基地面積は、本島面積の18%にもなります。

 米軍基地が2番目に多く存在する神奈川県の基地面積は21㎢、県面積の0.8%、米軍基地面積が全国2位の青森県では24㎢、県面積の0.3%です。また、有事に共用にされる土地という点では、北海道が全国1位で345㎢です。しかしこれは、北海道面積の0.5%足らずです。

 沖縄では、有事の際に共用となる土地は更に増えるのです。これらは、沖縄にどれだけ大きな負担を強いているか、よく分かる数字だと思います。国は、一刻も早くこの状況を改善するため、普天間基地を辺野古に移すという方針を撤回し、本土並みの負担になるよう基地の返還、本土、あるいは国外への米軍基地移転を進めるべきです。

 真実を行うというのは、国だけの問題ではありません。13年ほど前の飲酒運転による悲惨な死亡事故で、飲酒運転に対する厳罰化がなされ、飲酒運転追放運動が全国的に展開されましたが、飲酒運転は一向に減りません。警察官が飲酒運転で逮捕という嘆かわしいニュースを聞いたのも、一度や二度ではありません。そもそも法令遵守意識(コンプライアンス)がないのでしょう。

 最近、服薬コンプライアンスという言葉があることを知りました。医療現場において、患者が処方どおりに服薬している場合、「コンプライアンス良好」といい、そうでない場合を「ノンコンプライアンス」というそうです。もしかすると、こんなところにも、真実に生きるという意識の欠如が表われているのかも知れません。

 私たちに求められているのは、思い上がらず虚勢を張らず、主なる神を信頼し、弱さは弱さのまま、足りなさは足りなさのまま、あるがままで主の前に立ち、自分の身の丈にあった真実、誠実な働きをすることです。そのとき、主なる神はご自分の栄光の富に応じて、私たちに必要なものをすべて豊かに満たしてくださいます。

 主は、「四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食はユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時となる」(19節)と言われます。7章3節にエルサレム陥落を記念して断食する悲しみの時を持つべきかという問いが提出され、それに対して主が「果たして、真にわたしのために断食してきたか」(同5節)と問い返しておられました。形式的な断食に意味はないということです。

 また、[あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりして来ただけではないか」(同6節)と追求され、「正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、孤児、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを企んではならない」(同9,10節)と命じられていました。

 それをここでは、断食の時をユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時とすべきことを提案なされました。破壊された都に主が来られて真ん中に住まわれ、復興されるので(3節)、悲しみ嘆くときではなく、喜び祝うときとなると言われ、「あなたたちは真実と平和を愛さねばならない」(19節)というのです。

 多くの民、強い国々の民が来て、エルサレムにいます万軍の主を尋ね求め、主の恵みを求めて(22節)、「あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ」(23節)と言うと告げられます。

 未だ、このゼカリヤの告げた預言が実現を見てはいませんが、しかし、エルサレムのみでなく、あらゆる言葉の国々のあらゆる広場に老爺老婆が座し、わらべとおとめに溢れ、彼らが笑いさざめく様をぜひ見せていただきたいと、主に祈り願います。

 その実現を思い描きつつ、主にあって真実をもって語り合い、聖霊の導きに従って平和を創り出す者とならせていただきましょう。

 主よ、わが国の政治、経済、教育など、あらゆる分野で真実と公正、平和が脅かされているように思われます。そうした中にあって、常に真実であられ,平和の源であられる主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、正義を行う者となることが出来ますように。私たち自身も真実をもって語り合い、平和を創り出す者となることが出来ますように。 アーメン