「見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。」 ゼカリヤ書6章12節

 6章には「第8の幻」として、4両の戦車が登場して来ます(1節)。それは、数頭の馬に引かれた馬車です。最初の戦車には赤毛の馬、二番目は黒い馬、三番目は白い馬、そして四番目はまだらの強い馬がつけられていました(2,3節)。色々な色の馬は「第一の幻」(1章8節)にも出て来ました。それは、地上を巡回するために主が遣わされたものでした(同10節)。

 数頭の馬に引かれた4両の戦車を見たゼカリヤが、これは何かと御使いに尋ねると(4節)、「これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである」(5節)と答えました。天の四方の風は、「第3の幻」(2章5節以下)では、イスラエルの民を吹き散らしたものとして示されていました。ここでは、全地を主のものとするために出て行くのです(5節)。

 6節に「黒い馬は北の国に向かって出て行き、白い馬は西の方へ出て行き、まだらの馬は南の国に向かって出て行く」とあって、ここには「赤毛の馬」の記述がありません。また「天の四方」といいながら、東方向に出ていくものがいません。何かの都合で抜け落ちてしまったのでしょうか。

 マソラ本文の脚注では「赤い馬は東の地に向かって行く」という文言をつけ加えることが提案されています。また、7節の「強い馬」は、3節の「まだらの強い馬」のことでしょうか、それとも、まだ言及されていない「赤毛の馬」(2節)のことなのでしょうか。

 8節に「北の国に向かって出て行ったものが、わが霊を北の国にとどまらせた」とあります。イスラエルは、北の強大国アッシリア、バビロンに苦しめられ、そして今はペルシアの支配を受けています。ここで、主なる神の霊がとどまるというのを、新改訳は「わたしの怒りを静める」、口語訳は「わたしの心を静まらせてくれた」と訳しています。

 神の民を苦しめているものに対して、黒い馬に乗った主の御使いが勝利を収めたので、主の怒りが静められたという解釈です。新共同訳は、ほぼ直訳調です(岩波訳も)。かくて、北の国に打ち勝つというだけでなく、主の霊が留まるということで、そこに主を信じる信仰が植えつけられること、そして、それによって主の恵みが広げられることをも示しているようです。

 次いで、主の言葉がゼカリヤに臨みました(9節)。それは、帰還した捕囚の民から贈り物を受け取り、冠をつくってそれを大祭司ヨシュアの頭に載せることでした(10,11節)。ヨシュアに戴冠するということは、大祭司を王とするという意味になります。

 ただ、ペルシア王キュロスによって捕囚の民は帰還を許されましたが、イスラエルは事実上ペルシア帝国の支配下にあります。ですから、自分たちの王を立て、戴冠式を行うということは、当然許されざることであり、それをすれば、ペルシアへの反抗とみなされたことでしょう。

 冒頭の言葉(12節)にあるように、彼は「若枝」と呼ばれます。これは、「第4の幻」(3章)の中で大祭司ヨシュアとその同僚たちに、「わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる」(同8節)と語られていたことと矛盾します。マソラ本文脚注では、11節の「ヨツァダクの子、大祭司ヨシュア」を「シェアルティエルの子ゼルバベル」と読み替えるよう提案しています。

 13節を見ると、「若枝」と言われた主の僕は、神殿を建て直して王座に座し、傍らの祭司との間に平和の計画があると言われます。つまり、戴冠されるのはヨシュアとゼルバベルのどちらなのかということではなく、王と祭司、双方の務めを担う者だということです。

 イザヤ書4章2節、11章1,2節にも、主の若枝についての預言があります。その若枝とは、ダビデの子孫として生まれてくるメシアを表しています。今、指導者ゼルバベルと大祭司ヨシュアによって神殿建築が進められていますが、真の神殿を建てるのは、若枝なる主メシアであると、ここに宣言されました。

 14節に「冠はヘレム、トビヤ、エダヤ、およびツェファンヤの子の好意を記念するものとして、主の神殿に置かれる」とあります。主のメシアによって建て直された主の神殿に、祭司ヨシュアの頭に載せられた冠が安置されることになるということです。

 「冠」は複数形です。「ヘルダイ、トビヤ、エダヤ」の家族から受け取った贈り物で冠を作り(9,10節)、「ヘレム、トビヤ、エダヤ、およびツェファンヤの子の好意を記念するもの」としてそれを神殿に安置するというので、王冠が複数形になっているのでしょう。

 また「ツェファンヤの子の好意」は「好意」(ヘン)を固有名詞として「ツェファンヤの子ヘン」と読むほうが自然ですが、10節に「ツェファンヤの子ヨシヤ」と記されていることもあり、ここでは「ヘン」を一般名詞の「好意」と読んでいるわけです。

 「へレム、トビヤ、エダヤ、およびツェファンヤの子の好意の記念」とは、王であり祭司であるメシアに栄光を帰す振る舞いを主メシアに対する好意として記念することでしょう。冠が好意の記念として神殿に置かれるということは、その冠が主への感謝と献身の証しであり、王なるメシアによって神の国が堅く立てられることの徴ということでしょう。

 メシアが神殿を建て直されるということで、ゼルバベルやヨシュアの神殿再建の手が止まることはありません。むしろ反対です。主の若枝なるメシアが真の神殿を完成してくださると信じるからこそ、主の神殿の完成を急ぎ、自分たちに与えられた使命を果たそうとするのです。

 ダビデの子孫として生まれてくるメシアとは、イエス・キリストのことです(マタイ1章1節、使徒言行録13章23節、ローマ書1章3,4節、第二テモテ書2章8節など)。確かにイエス・キリストは、神殿を建て直して王座に就かれる方です。

 主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)と言われました。それは、ご自分の体のことで、死からの甦りを語っておられたのです(同21,22節)。

 また、イエスの誕生を予告した天使ガブリエルが、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と告げました。さらに「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(ヘブライ書4章14節)と記されています。

 かくて、神の子イエスは、真の神殿を建て、神の国を立てる真の王であり祭司であるメシア=キリストであり、罪と死の力を打ち破って復活され、天に昇られて神の右の座につかれたということは、 記念として主の神殿に置かれていた冠を戴かれたということです。

 私たちの体は聖霊の宿られる神殿であり(第一コリント6章19節)、また、教会はキリストの体と言われます(同12章27節など)。キリストの体として教会を建て上げるために、めいめいが、自分に与えられた才能、能力、賜物を用いて主に仕え、また、愛をもって互いに仕え合って参りましょう。主が、教会という御自分の体を通して、その栄光を現してくださいます。

 主よ、私たちは御子イエスの血によって贖われ、キリストの体なる教会を構成する一員とされました。私たちが互いに愛し合い、平和のきずなで結ばれて、互いに仕え合うことを通して、私たちの信仰の証しを御前に捧げることが出来ますように。主の愛を追い求め、教会を造り上げることが出来ますように。 アーメン