「それゆえ、お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。預言者たちには、太陽が沈んで昼も暗くなる。」 ミカ書3章6節

 イスラエルの不正を糾弾する預言者ミカの言葉は、次第に激しさを増して来ます。神に立てられて、正義を行うことが期待されている「ヤコブの頭たち、イスラエルの家の指導者たち」(1節)が、善を憎み、悪を愛する者となっているからです(2節)。

 1章ではヤコブ、イスラエルといえば、それは北イスラエル王国のことを指していましたが(同5節)、本章では10,12節との関連でエルサレムの指導者たちのことを意味しています。王や裁判官といった指導者がミカの批判の対象になっていると考えられます。

 1節の「正義」は「ミシュパート(公正、定め、裁きの意)」という言葉で、神の律法に基づく社会的な正義を示します。指導者たちは正義を知っているはずなのに、本当の意味で、それを知り、味わい、行使することがなかったことを糾弾しています。

 これは、ホセアが「この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ」(ホセア書4章1節)と言い、アモスが「悪を憎み、善を愛せよ」(アモス書5章15節)と語っていることに通じます。北王国でも南王国でも、その指導者たちに正義が見られないのです。

 「人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。彼らはわが民の肉を食らい、皮をはぎ取り、骨を解体して、鍋の中身のように、釜の中の肉を砕く」(2,3節)というのは、彼らがおのが腹の満足のみを追い求め、その権力を笠に、いかに民を食い物にしているかということを、比喩的に表現したものでしょう。

 預言者ミカが求める「正義」とは、イザヤが「善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(イザヤ1章17節)と告げているのと同様、弱く貧しい人々の訴えを聞き入れ、力のない人々に特別の注意を払うことです。しかし、エルサレムの指導者たちは、おのが役割をはき違えています。

 彼らが正義を憎み、悪を愛しているので(2節)、「今や、彼らが主に助けを叫び求めても、主は答えられない」(4節)と言われます。預言者たちについて、「歯で何かをかんでいる間は、平和を告げるが、その口に何も与えない人には、戦争を宣言する」(5節)と言います。「地獄の沙汰も金次第」ではありませんが、神の託宣を取り次ぐのに袖の下を要求しているわけです。

 11節にも「預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか。災いが我々に及ぶことはない』と」と記されていて、ワイロで裁きを曲げ、貧しい者から搾取したものを神に献げながら、なお神の保護を確信するという、彼らの厚顔無恥ぶりを言い表しています。

 だから冒頭の言葉(6節)のとおり、「お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない」と言われるのです。災いに際して主に叫び求めても、主は何も答えてくださらないのです。「太陽が沈んで昼も暗くなる」とは、彼らの行う占いや呪いが意味をなさない空しいものとなるというのでしょう。

 そのことで、サムエル記上3章1節に「その頃、主の言葉が望むことは少なく、幻が示されることもまれであった」とあり、それはシロの祭司エリの息子たちがならず者で、主を知ろうとしなかったためでした(同2章12節以下)。

 また、同28章に、侵攻して来たペリシテに恐れをなしたサウルに対し、主が何もお答えにならなかったと言われます(同5,6節)。それは、サウルが主に背き、命じられたことを遂行しなかったからでした(同18節)。

 ただしかし、これは昔のイスラエルのことで、自分とは関係ないとは思えません。むしろ、これが私たちの現実なのではないでしょうか。善を憎み、悪を愛するという自覚はありませんが、生活の忙しさにかまけて、主の御言葉を聴くことが疎かになります。祈りの生活が疎かになります。

 なかなか、自分に向かって語りかけられている主なる神の御言葉として、聖書を真剣に読むことが出来ません。祈りを通して主の御前に進み、主と親しい交わりをするという静かな時間をとることが出来ません。私たちの事情が主の御言葉に耳を傾けることよりも優先するのです。そしてそれを、やむを得ないこととして来ました。

 故榎本保郎先生が、「壊れやすいのは、祈りの祭壇です。あなたの祈りの祭壇は壊れていませんか。あなたの祈りの祭壇から、芳しい香りが主の前に絶えず立ち上っていますか」と語っておられた言葉を思い出します。人の顔色を伺い、人の事情が優先するような聖書の読み方、祈り方をしていて、どうして、生ける神の御言葉を聴くことが出来るでしょうか。

 私たちに対して語りかけられる主の御言葉をはっきり聴くことなしに、その御心を悟ることは出来ません。どんなに教理的に正しく教えることが出来ても、それは、どこまでも人間の知恵、知識による言葉であって、それで人の魂を揺さぶり、真の悔い改めに導くことは出来ません。それで、まことの神の愛が伝わるはずがありません。

 信仰に入って以来、私たちはどれほど成長してきたでしょうか。いえ、むしろ後退しているのではないでしょうか。主から断罪されれば、言い逃れることは出来ません。ただ素直に、「あなたの仰るとおりです」と認めるほかありません。

 しかし今、この裁きの言葉を自分に語りかけられている主の御言葉として真剣に聴くならば、主は私たちの歩むべき道、私たちがなすべきことをも語り示してくださるでしょう。主の御前に謙りましょう。

 「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ5章5,6節)と言われているとおりです。

 主よ、あなたこそ真の羊飼いです。あなたの他に良い羊飼いはいません。あなたは絶えず私たちのことを心にかけ、必要のすべてを豊かに満たしてくださるからです。主よ、私たちの耳を開いてください。あなたの御声に聴き従います。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなただけなのです。御言葉を聞いて行う者にならせてください。御国が来ますように。御心が行われますように。 アーメン