「ヤコブよ、わたしはお前たちをすべて集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。」 ミカ書2章12節

 イスラエルに悪がはびこり、貪欲が国を支配しています(1,2節)。それを主なる神が裁かれます(3節)。それは、彼らが不正に手に入れた土地、畑が取り上げられて他者のものになり、嘆きの歌を歌う羽目になるということです(4節)。

 このミカの預言を、権力者、裕福な者たちは「たわごと」(6節)と決めつけ、「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」(6,7節)と言って、真剣に耳を傾けようとはしません。

 「たわごとを言う」と訳されている原語は、「流れる、滴り落ちる」(ナータフ)という意味の言葉で、あまり意味のない言葉を口から溢れさせる、たわごとを言うという表現に用いられます。岩波訳は、「涎(よだれ)を流す」と訳しています。

 けれども、主なる神の霊的な導きを受けて語る預言者の言葉を「たわごと、涎」というのは、それこそ、主に向かってたわごとを語っていることになるでしょう。だから、滅びを刈り取らなければならないのです。

 主は、「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である」(10節)と言われました。神の都と言われ、主の神殿の置かれたエルサレムが、民の安住の地にならず、汚れのゆえに滅びるというのです。

 けれども、それによってすべての者が撃たれ、滅ぼし尽くされるというわけではありません。冒頭の言葉(12節)にあるように、「イスラエルの残りの者」がいます。主なる神は彼らを呼び寄せると言われます。

 「彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする」は、口語訳では「これをおりの羊のように、牧場の中の群れのように共におく」、新改訳は「彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める」、岩波訳は「牧草地にいる群れのように、人の群れでざわめく」と訳しています。

 いずれにせよ、「残りの者」とは、今は囲いの中にいない、群れとならず追い散らされている弱い羊のような存在、それは即ち、貪欲な権力者によって畑が奪われ、家を取り上げられ、虐げられてきた人々のことと考えられます。あるいはまた、神がイスラエルの家を打たれ、裁かれて、遠く散らされる人々のことを語っていると考えることも出来ます。

 主なる神は、「わたしはお前たちをすべて集め」、「わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする」と言われます。エレミヤ書31章10節に「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる」と記されていましたが、主ご自身がイスラエルの牧者となられ、もう一度彼らをご自身の宝の民とされるのです(申命記7章6節以下参照)。

 主イエスが「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章11節)と言われ、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(同16節)と語られました。つまり、ミカが語っていた羊飼いとは、主イエスのことだったのです。

 囲いに入っている羊とはユダヤ人のこと、囲いに入っていない他の羊とは異邦人のことと言ってもよいでしょう。主イエスの前にはユダヤ人も異邦人もなく、皆をその救いの恵みに招いておられるのです。

 今日、主イエスの贖いにより、主イエスを信じる信仰を通して、誰でも神の民となることが出来るようになったのは、感謝この上もないことです。これは、まったく一方的な神の憐れみです。羊を奪い、追い散らす狼から(同10章12節)、主イエスが御自分の命をはって守ってくださるのです。

 主は、私たちが命を受けるため、しかも豊かに受けるために来られました(同10章11節)。その豊かさは、物質的なものではなく、私たちと神との交わりの豊かさであり、そしてまた、私たちと隣人との交わりの豊かさを示しています。「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる」という親密な交わりのことです。

 この神の深い愛と計画に従い、いつも、主イエスと共に歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたの恵みを感謝します。深い憐れみのゆえに、神に敵対し、たわごとを語っていたような私たちを、主の群れに加えてくださいました。主に選ばれ、名を呼ばれた者として、その声を聞き分け、ただ主にのみ従うものとしてください。御旨のままに出て行き、豊かな実を結ばせてください。御名が崇められますように。 アーメン