「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」 ヨナ書4章12節
ヨナは、主がニネベに災いを下すのをやめられたことが不満で(1節)、主に向かって怒りを爆発させます。それは「主よ、どうか今、わたしの命をとってください。生きているよりも死ぬ方がましです」(3節)というほどでした。なぜヨナは、主に対してそれほど憤ったのでしょうか。
ヨナは、主が恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富んでおられ、災いを思い直される方であることを知っていました(2節後半)。そして、彼は自分がその主の恵みと憐れみによって嵐の海から救われたことに感謝し(2章3,7節以下)、主の命令に従ってニネベの都に行ったのです(3章3節)。
しかし、「わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました」(2節前半)と言っているところから、彼の思いは、あの嵐の海に投げ込まれる前から変わっていないことが分かります。
即ちヨナは、自分がニネベの都で主の言葉を告げるということは、主なる神の恵みと憐れみがニネベに表わされ、災いを思い返されて滅びを免れることになるだろうと考えていたこと、そして、ヨナ自身はそのようになることを決して望んではいなかったということです。ヨナは、主の恵みと憐れみが自分に向けられるときには感謝していたのですが、ニネベの都に対して表されるのは不満なのです。
言い換えてみれば、ヨナは自分だけを愛してほしいのです。主なる神が自分を含むイスラエルの民以外のものを愛されることに妬みを、そして、そのようにされる主に対して、憤りを感じているわけです。
しかも、アッシリアの王ティグラト・ピレセルは即位後、たびたび軍事遠征を行い、大きな成果を上げます。イスラエルにも紀元前738年に侵攻し、周辺諸国と共に朝貢させました。以後、シリアとイスラエルが反アッシリア同盟を結成すると、再び攻め寄せてダマスコを陥落させ、シリアをアッシリアの属州としました(紀元前733年)。
そして、ティグラト・ピレセルの死後、紀元前721年にその子シャルマナサル王によって北イスラエル王国は滅ぼされることになります(列王記下17章1節以下、6節)。そんな危ない芽は、早めに摘んでおくべきだと考えても不思議ではありません。アッシリアの都が自らの悪によって滅びるなら、それに任せておくべきだということです。
ところが、主はこの国を憐れむと言われます。ヨナにとっては、全く理解に苦しむ展開です。それで、「生きているより、死ぬ方がましだ」(8節)などと、悪態をついているのです。そうした態度に対して主は、「お前は怒るが、それは正しいことか」(4節)と問われます。言い換えれば、お前の憤りは不当なものだということでしょう。
主はヨナのこの狭い考えを変えさせたいと思われ、とうごまの木を備えられました。木陰が出来たので、ヨナは機嫌を直しました(6節)。しかし、それが一日にして枯れてしまうと、ヨナの気分は最悪になりました(7,8節)。
そこで主がヨナに「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(9節)と問いかけます。ヨナは「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」(9節)と答えました。
主はその答えを聞いて、「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる」(10節)と言われ、次いで冒頭の言葉(12節)の通り「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」と語られました。
ここに、主なる神の愛が表されています。主はイスラエルの民だけを愛されるのではありません。ヨナを愛され、イスラエルを愛されるのと同様に、ニネベの都に住む人々を愛さずにはおれないのです。
主がニネベの12万の民を愛されるのは、彼らにその値打ちがあるからというのではありません。主は彼らを、「右も左もわきまえぬ人間」と言われています。それは、善悪を弁えないということです。善悪を弁えないということは、悪を行っているということです。つまり、主の御前に罪人であるということです。そして主は、その罪人を愛してくださるのです。
主は、キリストを信じる人だけを愛しておられるのではありません。教会に来る人だけを愛しておられるのではありません。だからこそ、キリストの愛は全世界に伝えられたのです。今日、私たちはその愛を受けています。私たちの家族も愛されています。
以前住んでいた大牟田の人口はおよそ12万人、ニネベの都の人口に匹敵する町でした。静岡市の人口は70万人弱です。主なる神はどちらに住む人々も、同じように愛してくださいます。日本に住む1億2700万の人々は、神に愛されているのです。
主は私たち日本人を愛して、すべての罪人のために独り子イエス・キリストを十字架に、罪の贖いの供え物とされたのです。私たちが神に選ばれ、その恵みと慈しみを受けたのは、すべての造られた者に神の愛と恵みを告げ知らせるためです。
その使命を果たすため、主を信じ、聖霊に満たされ、その力に与りましょう。主の証人として、自分の家族、住んでいる町から地の果てにまで、遣わされて出て行きましょう。
主よ、この小さな私たちに目を留め、限りない愛を注いでくださることを感謝します。あなたの愛を家族に、この町の人々に、わが同胞、そして全世界の人々に示していくことが出来ますように。聖霊を通して、必要な知恵と力を授けてください。御心がこの地になりますように。 アーメン
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