「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いを下すのをやめられた。」 ヨナ書3章10節

 主なる神が魚に命じられて、ヨナを陸地に吐き出させました(2章11節)。主がそのように計らわれず、魚がヨナを吐き出した場所が深海であれば、命はありませんでした。また、吐き出されないままでいれば、魚の腹の中で消化されてしまったことでしょう。

 土の上に立つことが出来たヨナに、再度「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」(2節)という主の言葉が臨みました。ヨナは直ちにニネベに赴きました(3節)。それは、喜び勇んでということではなかったかも知れませんが、少なくとも嵐の海で経験したこと、巨大な魚の腹の中で三日三晩過ごした経験が、ヨナを従順にしていました。

 アッシリアの首都ニネベは非常に大きな町で、「一回りするのに3日かかった」(3節)とあります。江戸時代、男は10里、女は9里歩いたと言います。3日歩く距離といえば100~120kmといったところでしょう。東京23区の周囲が140~150kmらしいですから、二千数百年前の町としては破格の大きさです。

 ただ、実際のニネベは、北イラク・モスルのティグリス川対岸(東側)にある二つの土山テル・クユンジク(「多くの羊の土山」の意)とネビ・ユヌス(「預言者ヨナ」の意)がこの町の廃墟で、前者は後者の倍ほどの大きさがあり、その両方を周囲13kmほどの城壁が囲んでいます。

 アッシリア帝国の首都ニネベの町にやって来た小国イスラエルの預言者の告げる言葉に耳を傾けてくれる人がいるでしょうか。また、ニネベの都の滅びを告げて、無事にイスラエルに帰れるでしょうか。誰も聞いてはくれないだろうという悲観的な思いや、むしろ危害が加えられるかもしれないという恐れや不安なども、はじめに主の命令に背かせる要因となったのではないかと思われされます。

 それでも、主の命令どおりまず都に入り、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(4節)と叫んで言いました。それもまた、開き直りといってもよい心理状態だったのかも知れません。歩いて三日かかる外周の三分の一、「一日分の距離を歩きながら」とは、町を囲む城壁の内側付近を一日歩いたということでしょう。

 あと二日も同じことをしなければならないというのは、心を重くするものではなかったでしょうか。ところが、そのような彼の恐れ、不安、どうせ誰も聞いてくれないというどこか馬鹿馬鹿しいような思いは、全くの杞憂に終わりました。なんと、ニネベの都の人々は、彼の言葉を聞いて主を信じ、自ら悔い改めの断食を呼びかけ、こぞって身に粗布をまとったのです(5節)。

 そして、そのことが王の耳に届くと、なんと王もその仲間となり(6節)、町中に王と大臣たちの名で布告を出し、人も家畜も粗布をまとい、断食して神に祈願するように、また、悪の道を離れ、不法を捨てるようにと命じました(7,8節)。そうすることで、神の怒りが静まり、滅びを免れるかも知れないと考えたのです(9節)。

 ヨナが都の周辺で語り、それを聴いた住民が悔い改め始め、その輪が次第に大きくなって中央部にいたり、王を巻き込んで国家の一大事業のように、皆がそれに真剣に取り組みました。1章1節で「彼らの悪はわたしの前に届いている」と主に言わしめたその悪の内容は不明ですが、王はそれを自覚して断食を布告し、「おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」(8節)と命じました。

 それにしても、人だけでなく家畜にも粗布をまとわせ、断食して祈るという徹底ぶりは、一体全体どうしたことでしょう。なぜ、アッシリアの都ニネベの町の人々は、こんなに見事に、主なる神の御前に悔い改めたのでしょうか。特に、国王までもが主を信じ、悔い改めたのはなぜでしょうか。

 それはもちろん、ヨナが主の言葉を語ったからです。そのことで、ヨナが熱弁を振るったのがよかったのでしょうか。彼が上手く王を説得することに成功したのでしょうか。ヨナが特に篤い信仰を持っていたからでしょうか。そうかもしれませんけれども、そのようなことではないという可能性は決して低くないと思います。

 もともと、ヨナは主に背き、命ぜられたニネベでなく、正反対の方向、地中海の西の果てのタルシシュへ逃げ出したのです。そして、彼は、嵐の海に放り込まれましたが、主が備えてくださった巨大魚によって死の海から救い出されたのです。既に、預言者ヨナの身に不思議な主の御業が起きていました。

 つまり、ヨナがニネベで預言活動が出来たのは、主の憐れみによる奇跡ということです。そうすると、ニネベの人々がその言葉を聞いて悔い改めたのも、主の憐れみによる奇跡の御業というほかはないでしょう。

 主がヨナに、ニネベの町が滅びると告げさせたのは、本当にニネベの都を滅ぼしたかったからではありません。冒頭の言葉(10節)にあるように、主はニネベの人々が、王を初めとして、人も家畜も断食し、不法を捨て、悪の道を離れたのを見て思い返され、宣告された災いを下すのを中止されました。つまり、主は、ニネベの人々が悔い改めて、ご自分に聴き従うことを望んでおられたわけです。

 ということは、ヨナの預言は、ニネベの都に悔い改めを促す警告、イエロー・カードだったわけです。このような、憐れみに富む主の御心がなければ、ヨナの預言も、そしてまたニネベの悔い改めもなかったのではないでしょうか。

 そして、今私たちが神を信じているのも、神の御心、神の憐れみなのです。そうです。神はその豊かな憐れみによって、遠く東の日本に住む私たちを救い、生き生きとした希望を与え、そして、朽ちず汚れずしぼむことのない天の資産を受け継ぐ者としてくださったのです(第一ペトロ1章3,4節)。

 日々心から主に感謝し、愛と恵みをもって語りかけられる主の御言葉に耳を傾けましょう。絶えず導きに従って歩みましょう。

 主よ、私たちの国を顧みてください。ニネベの町の人々のように、政界、財界、教育界などあらゆる世界の指導的な立場にいる者から、一般の人も、そして家畜も皆、神の御前に悔い改め、不法を捨て、正義と公正を行うことを旨とする歩みが出来ますように。主の導きにより、真の愛と平和と清い喜びに満たされますように。 アーメン