「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を乗り越えられる。その御名は万軍の神なる主。」 アモス書4章13節

 4章でアモスは、イスラエルに対して具体的な告発を行います。

 先ずサマリアの女性たちに向かって、「サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ」(1節)と呼びかけ、彼らは弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げていると、その罪を告発します。「バシャンの雌牛」とは、食用に供される牛の品種を示しており、サマリアの女性たちを侮辱して、憤らせる表現です。

 女性が、「酒を持って来なさい、一緒に飲もう」(1節)と夫に向かって言い、夫は女性に十分な酒を用意するために、弱い者、貧しい者から搾取しているということでしょう。ということは、ここで裁かれているのは、北イスラエルにおける支配者層の人々ということになります。

 その深酒と不公正のゆえに彼らは裁かれ、「ヘルモンの方へ投げ出され」(3節)ます。ヘルモン山はイスラエル北方、アラムとの国境線付近にそびえる標高2800メートルを超える高峰です。ヘルモンの方へとは、北方へということで、アラムのことを指しているのでしょうか。はたまた、さらに北方の強国アッシリアのことを考えているのでしょうか。

 「投げ出される」は、2節の「肉鉤で引き上げられ」、「釣鉤で引き上げられる」との関連で、北方の国へ捕らえ移され、捕囚とされることと読めます。

 次いで4節で、「ベテルに行って罪を犯し、ギルガルに行って罪を重ねよ」と語ります。ベテルやギルガルには、古くから聖所が置かれ、民はそこで神を礼拝していました。「罪を犯し」、「罪を重ねよ」と言われますが、ここでいう罪とは、法に触れる犯罪のことではありません。それは神に背くことです。

 それを、神殿で朝ごとにいけにえを携え、三日目には十分の一税を納め、感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼き、大声で随意の献げ物をすると触れ回ることによってせよというのです(4,5節)。これらの儀式に関係する行為は、通常はむしろ、神との関係を正しくするため、より確かなものとするために行われます。

 ところが、イスラエルの人々は、それらの儀式を行うことで、神からますます離れているとアモスは言うのです。それというのも、ベテルやギルガルで彼らが礼拝しているのは、万軍の主なる神ではなく、冒頭の言葉(13節)で「地の聖なる高台」と言われるような異教の神々なのです。

 「ベテルに行って罪を犯し」なさいというのは、勿論、神がそう願われての言葉ではありません。彼らがそうしていることを皮肉っているわけです。「ギルガルに行って罪を重ね」よというのも、同様です。そうすることが主なる神に対する罪であることを、明言しているわけです。  

 6節以下に、「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」という言葉が5度(6,8,9,10,11節)繰り返されます。主なる神はそのとき、イスラエルが主に顔を向け、立ち帰るよう、様々な災いをイスラエルの上に降されました。それらによって彼らが罪を悔い改め、主を呼び求めるようになると期待されたのです。

 ところが、イスラエルの民は何度悔い改めを呼びかけても答えてくれないし、手を変え品を変えして帰り道を準備しても、帰って来ようともしません。それを見た主は、悲しくてやりきれないという思いでおられたのではないでしょうか。

 それで、堪忍袋の緒が切れたというのではないと思いますが、12節に「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」と言われます。ここにも、4節同様の皮肉があります。通常、聖地への巡礼は主なる神の救いの恵みに感謝し、祭に参加するためになされるのですが、主はイスラエルの民に決定的な裁きを告げるために、彼らを招いておられるからです。

 そして、冒頭の言葉(13節)が語られました。主なる神は山々を造り、風を創造された方です。暗闇を変えて曙となされた万軍の神なる主の御前に、どんなことも隠すことは出来ません。すべてが明るみに出されます。

 彼らがベテルやギルガルを巡りながら、あたかも主なる神を拝んでいるようにして、実際には「聖なる高台」で異教の神々に犠牲を献げている彼らの偽善が明らかにされました。そして、「聖なる高台」は踏みつけられ、乗り越えられます。

 異教の偶像が主の御前に何の力がありますか。何の助けになりますか。偶像に依り頼んでいて、真の神と対峙できますか。そうです、それら異教の神々、刻まれた神の像は、何の力にも助けにもなりません。どうすれば、主と出会う備えが出来るでしょうか。

 神は、イスラエルの民が帰ってくるのを待っておられるお方です。素直に神のもとに帰ればよいのです。神は求められること、探されること、門が叩かれるのを待っておられます。神は私たちの罪の闇を、命の光が輝き出る曙にお変えになることが出来るのです。

 「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ書10章20~22節)と言われるとおりです。

 朝毎に慈しみ深き主に信頼し、主の御前に進みましょう。御顔を仰ぎ、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。 

 主よ、罪深い私をお赦しください。どうか私を内側から清めて、新しくしてください。清い心、新しい霊を授けてください。御救いの喜びを再び味わわせ、自由の霊によって支えてください。真心から近づくことが出来ますように。新たな恵みを得て、主に仕えさせてください。 アーメン