「ユダの三つの罪、四つの罪のゆえにわたしは決して赦さない。彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖もあとを追った偽りの神によって惑わされたからだ。」 アモス書2章4節

 諸国民への裁き(1章3節以下)の最後に、モアブに対する裁きが語られます(1節以下)。「モアブの三つの罪、四つの罪」と言いながら、そこに挙げられているのは、「彼らがエドムの王の骨を焼き、灰にした」ということのみです。

 王の骨を焼いて灰にするというのが、列王記下3章27節の、王となるはずの長男を人身御供として焼き尽くすいけにえとしたようなことか、それとも、エレミヤ書8章1,2節の、王墓を荒らしてその骨を焼いたようなことなのか、論争されていると、岩波訳の脚注に記されています。ただ、モアブの罪として、エドムの王の骨を焼いたというので、エレミヤ書の方が妥当でしょう。

 エドム人は、ヤコブの兄エサウの子孫ですが(創世記36章1節以下、6,8節)、「剣で兄弟を追い、憐れみの情を捨て、いつまでも怒りを燃やし、長く憤りを抱き続けていた」(1章11節)と、イスラエルに対する暴力的な行動が断罪されていました。

 そのエドム人の王の墓を荒らしたこと、遺体を焼いたことが、モアブの罪として断罪されています。墓を荒らし、遺体を汚すことは、他者の命や宗教に対する冒涜といえます。主なる神は、異教徒だからといってエドム人の生命を軽んじ、その宗教を冒涜してよいとは言われないのです。

 諸国民への裁きに続き、4,5節に南ユダの裁きが語られます。敵対する諸国民に対する裁きを喜びながら聞いていた北イスラエルの民は、南ユダの裁きについても、気分よく耳を傾けていたのではないでしょうか。

 冒頭の言葉(4節)に述べられているユダの罪は、これまでに語られてきた諸国に対するものとはまったく違います。隣国を荒らしたなどということではありません。ユダの人々が主なる神の教えに背き、異教の神々を礼拝したというかどで、諸国民と同様の裁きを受けているのです。

 それには理由があります。南ユダ王国の人々、そして6節から裁きが語られる北イスラエル王国の人々は、主なる神から特別の恵みを得ました。彼らは、主なる神によってエジプトの奴隷の苦しみから解放され、約束の地カナンに領土を与えられました(9,10節)。

 40年の荒れ野の生活の間、服は古びず、靴も擦り切れることなく、パン(マナ)も毎日必要な分だけ与えられました(申命記8章3,4節、29章4節)。肉がほしいといえばウズラの肉が与えられ(民数記11章)、水が飲みたいといえば、岩から水が流れ出るようにされました(出エジプト記17章1節以下、民数記20章1節以下)。

 それらはすべて、神の恵みでした。エジプトの奴隷であったイスラエルの人々は、神の憐れみのゆえに、恵みによって選ばれて、神の宝の民とされたのです(申命記7章6~8節)。それにも拘らず、彼らは恩知らずにも主の教えを拒み、その掟を守ろうとしなかったというのです。そして、異教の神々を祀ることさえして、神の怒りを買ったわけです(4節、申命記7章9,10節)。

 「三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない」という言葉が、1章3節~2章5節において繰り返されてきました。「三つの罪、四つの罪」とは、三つか四つの罪という意味でしょうか、3+4=七つの罪という意味でしょうか。いずれにせよ、多くの罪という意味でしょう。

 ただ、諸国民の罪は、いずれも一つしか記されてはいませんから、繰り返し、何度も罪を犯したと読むことが出来るでしょう。そして神の選びの民、ユダは、それこそ何度も何度も神を悲しませ、繰り返し繰り返し神を憤らせてきたのです。

 6節以下には、北イスラエルの裁きが述べられます。アモスは、預言者として諸国民の裁き、そして、自分の出身地の南ユダの裁きも語りましたが、北イスラエルの罪は、かなり詳しく語られています。確かに彼は、北イスラエルに遣わされた預言者なのです。

 先ず、「正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売った」(6節)とは、裁判官が賄賂を取って法を曲げ、貧しい者を罪に定める判決を下したということです。また、「弱い者の頭を地の塵に踏みつけ」(7節)とは、弱者を虐待したということもあるでしょうが、弱い者、貧しい者から搾取しておのが腹を肥やそうとしているということです。

 また、「父も子も同じ女のもとに通い」(7節)は、近親相姦というようなことではなく、何世代にもわたって異教の神殿娼婦のところに通い、まことの神への信仰を捨てたということです。

 さらに、神が立てたナジル人に、禁じられている飲酒を強要し(民数記6章3節)、預言者に預言するなと命じたと言われます(11,12節)。徹頭徹尾神に背き、その御言葉に耳を傾けることを拒否しているわけです。これらのことは、4節に掲げられたユダの罪を詳述したものといってよいでしょう。

 そこで、「わたしは麦束を満載した車がわだちで地を裂くように、お前たちの足もとの地を裂く」(13節)と、その裁きが告げられます。「地を裂く」は「ウーク(押しつぶす、砕くの意)」 という言葉です。口語訳、新改訳は「圧する」、「押さえつける」と訳しています。岩波訳は「轟かす、轟音を立てる」と訳し、脚注に「地震を考えたい(1章1節、6章11節参照)」と記しています。

 轟音を立てて地が引き裂かれるような地震に襲われれば、14節以下に言われるとおり、だれもその激しい揺れから逃れることができず、剣や弓、馬も、地震から勇者を守り助けることはできません。そのように、主の裁きは突如として襲い来り、すべてのものを飲み込むというのです。

 主イエスも「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(マタイ24章38,39節)と教えておられます。 

 ローマ書11章22節に「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」とパウロが記しています。神の慈愛にとどまらなかった者、信仰に躓き倒れた者には、神の厳しさが臨むというのです。これは心したい言葉です。

 私たちもいつしか恵みに慣れ、感謝を忘れてつぶやくことが少なくありません。神の御言葉よりも自分の事情のほうが大事だと考えてしまいます。あらためて、私たちが神の子と呼ばれるために、どれほどの愛を神からいただいていることか、よく考えて見ましょう。主から賜った恵みをもう一度思い起こし、数えてみましょう。そして、心から神に感謝しましょう。

 主よ、私たちはあなたの憐れみによって恵みのうちに選ばれ、神の宝の民としていただきました。私たちの心に主の教えを刻み込んでください。キリストの言葉を豊かに宿らせ、すべての者が主を知ることが出来るように、喜びと感謝をもって主をほめたたえさせてください。 アーメン