「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え。」 ヨエル書4章10節(口語訳・新改訳では3章10節)

 新共同訳聖書の4章は、口語訳、新改訳では3章になっています。

 主なる神は4章1節以下に「諸国民の裁き」を語られます。彼らは、ユダとエルサレムの繁栄が回復される日に、「ヨシャファト(主の裁き)の谷」に召集されます(2節)。それはまさに裁きのためです。

 主が諸国民を裁かれるのは、「わたし(主なる神)の民、わたしの所有であるイスラエルを、彼らは諸国の民の中に散らし、わたしの土地を自分たちの間に分配したから」(2節)であり、また、「わたしの民の運命をくじで定め、遊女を買うために少年を売り渡し、酒を買うために少女を売った」(3節)からであると言われています。

 諸国の民について、4節に「ティルスとシドンよ、ペリシテの全土よ」とあります。「ティルスとシドン」はフェニキヤ人の町で、イスラエルの北に位置しています。一方、「ペリシテの全土」はイスラエルの南西に位置しています。

 彼らが金や銀の神殿祭具を運び去り(5節)、ユダとエルサレムの人々をギリシア人に売り渡した(6節)と言われますが、歴史的にどの出来事を指すのか、よく分かりません。ただ、地中海沿岸に位置する彼らの港から、少年少女をはじめとする主の民が奴隷として、ギリシアに向けて運び出されたのでしょう。 

 9節に「諸国の民にこう呼ばわり、戦いを布告せよ」と語られています。主が諸国の民に宣戦布告しておられるわけです。そして冒頭の言葉(10節)のとおり、「お前たちの鋤を剣に打ち直し、鎌を槍に打ち直せ、弱い者も、わたしは勇士だと言え」(10節)と言われます。

 ここで、「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」とは、イザヤ書2章4節やミカ書4章3節で「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と語られている言葉の逆です。戦いを止めて平和を造れというのではなく、イスラエルを踏みつけて繁栄を手にし、平和を謳歌している者たちに、平和の道具を武器に変えよというわけで、彼らの平和と繁栄は終わりを告げたという表現と考えることが出来ます。

 実際に「ヨシャファトの谷」(2,12節)で、主と諸国の民との間にどのような戦いが展開されるのか、何も記されていません。そもそも、「ヨシャファトの谷」なるものがどこにあるのか分かりません。イスラエルに、その名で呼ばれる谷はないのです。つまりそれは、固有名詞ではないということです。伝統的にケデロンの谷のことと言われますが、しかし、それを示すものはありません。

 「ヨシャファト」とは、新共同訳聖書に括弧書きで記されているように、「主の裁き」という意味です。ヨシャファトの谷とは、主の裁きの谷ということになります。ユダとエルサレムの繁栄が回復される日に、周囲のすべての民を裁く「主の裁き(ヨシャファト)の谷」という法廷が設けられ、そこで諸国の民が裁かれるということです。

 諸国の民を待っているのは、勇壮な戦いなどではありません。「鎌を入れよ、刈り入れのときは熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶね満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい」(13節)と言い、「裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく」(14節)と語って、諸国の民の罪過、その悪が頂点に達しているので、今にも裁きがなされようとしてることを示しています。

 ところで、「弱い者も、わたしは勇士だと言え」(10節)とはユーモラスな表現で、弱腰の兵士が「わたしは勇士だ」と震え声で言うという図を思い浮かべてしまいます。それでは戦いになりません。イスラエルを踏みつけた諸国の軍隊は、決して弱い者などではありませんでした。

 しかし、この言葉から教えられるのは、「わたしは勇士だ」と語る者は、実は弱い者だというメッセージです。自分の弱さを他人に見せることが出来ず、常に虚勢を張り、弱さがあることを隠して「わたしは勇士だ」と語っているということです。武器を取るとはそういうことでしょう。武装しないと不安なのです。

 そのように読んだとき、これは、諸国民に向けて語られているようだけれども、実際には、イスラエルの民に向かって語られているのではないか、ユダヤとエルサレムの繁栄が回復されるのは、彼らの武力、王の力などによるのではないと言おうとしているのではないかと気づかされました。

 主なる神の前には、どんな武装も役には立ちません。主は、天地万物を創造されたお方です。一瞬のうちに、すべてを過ぎ去らせてしまうこともお出来になるでしょう。一方、主が味方でいてくださるなら、兵力が貧弱なこと、武装が十分でないことなど、問題ではありません。主ご自身が避け所、砦となってくださるからです(16節)。

 イザヤ書30章15節に「お前たちは、立ち帰って,静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」とあります。イスラエルはこの言葉に耳を傾けることができず、滅びを招きました。目に見える力、兵馬の数に頼らず、目に見えない神、主に頼るというのは、なかなか困難なことでしょう。それには、常日頃の主なる神との交わりが不可欠です。

 朝毎に主の御名を呼び、御言葉に耳を傾けましょう。主の御心をわきまえることができるよう、聖霊の導きを祈り求めましょう。肩の力を抜き、リラックスして、私たちに委ねられている大切な仕事を、精一杯心を込めて行いましょう。周りの人々、お互いのことを認め合い、協力し合いましょう。平和の主が共にいてくださいます。

 主よ、朝毎にあなたの御言葉に耳を傾けます。私たちが行うべきことを教えてください。実行する知恵と力を授けてください。平和が私たちの家庭に、静岡、周辺の町々、日本の国、そして世界中に豊かにありますように。あらゆる紛争が平和裏に解決されますように。互いに赦し合い、助け合うことが出来ますように。 アーメン