「ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる。」 ホセア書10章15節

 1節に「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい」と言います。イスラエルがいかに成長し、繁栄しているかを思い起こさせる言葉です。しかしながら、繁栄するにつれて異教の祭壇が増え、バアルを示す石柱がかしこに立てられていきました。

 イスラエルの民は、その繁栄をバアルを初めとする異教の神々のお蔭と考えているわけです。それゆえ、「彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒される」(2節)と、主の裁きが宣せられるのです。

 3節の「今、彼らは言う。『我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか』と。」とは、アッシリアに攻め込まれて首都サマリアが陥落し、ホシェア王が捕虜となることを預言したものでしょう(列王記下17章)。

 あるいは、王の名に値する者がいないということなのかもしれません。1章1節のホセアが生きた時代の北イスラエルの王の名が、ヨアシュの子ヤロブアムのほかには記されていないというのが、その証拠と言えます。実際には王はいましたが、彼らは主を畏れ敬わず、主の目に悪とされることを行い続けていたので、滅びを免れることはできなかったのです。

 14節に「シャルマンがベト・アルベルを破壊し、母も子らも撃ち殺したあの戦の日」という言葉があります。シャルマンという人物は他の箇所に出ませんが、ティグラトピレセルをプルと呼ぶ慣習から(王下15章19節)、列王記下17章3節等のシャルマナサル(5世、紀元前727~722年)か、同名のシャルマナサル3世(ティグラトピレセルの子、紀元前859~824年)とする意見があります。

 シャルマナサル3世の碑文によれば、紀元前853年にオロンテス地域のハマト北方で北イスラエルのアハブと対決しています。アハブは、アラムのベン・ハダド(両者の関係は列王記上20章1節以下を参照)に戦車2千両と兵士1万を提供してアッシリアに対抗したとされています。つまり、シャルマナサル3世はイスラエルに侵入して来た最初のアッシリア王ということになります。

 ベト・アルベルという町の名前も、ここ以外に記されてはいませんが、ヨルダン川東部ギレアドの町でガリラヤ湖の南東30㎞にある今日のイルビドのことであろうと考えられています。この町は交通の要衝にあって、軍事的にも重要な町であったことが知られています。

 聖書に記されていないこの戦いのことを、当時の人々はよく知っていたことでしょう。だから、ベト・アルベルの戦いを取り上げた上で、冒頭の言葉(15節)で「ベテルよ」と呼びかけているのです。そしてホセアは、「お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる」と言います。

 ベテルはイスラエルでよく知られた町です。かつてここは、イスラエルの父祖ヤコブが、兄エサウの祝福を奪ったことで、ベエル・シェバからハランの地まで逃れる旅をしている途中(創世記28章10節)、神と出会い、祝福を受けた場所です。

 そのとき神は、①この地を与える。②数が増し、四方へ広がる。③神が共にいる。④どこに行っても守る。⑤必ずこの地に連れ帰る。⑥約束が実現するまで見捨てないと約束されました(同13節以下)。そして、神の約束どおり、ヤコブは多くの財産を携え、ハランの地から故郷へ戻って来ました(同31章)。

 神の御言葉は信ずべきです。神の約束は必ず実現するのです。ベテルとは「神の家(ベト=家、エル=神)」という意味ですが、ヤコブは荒れ野で主なる神と出会い、主の祝福の言葉を聴いてその地をベテルと名づけたのです。

 主なる神と出会い、その御言葉を聴くところがベテルであれば、今日のベテルはどこにあるのでしょうか。そうです。どこにでもベテルがあります。私たちが神を慕い求め、御言葉を聴こうとするなら、どこでもベテルです。

 ところが、この町が滅ぼされ、「夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる」と言われています。かつてイスラエルが南北に分裂したとき、北イスラエルを治めた初代の王ヤロブアムは、金の子牛の像を2体作り、一つをベテルに、もう一つをダンに置きました(列王記上12章28節以下)。さらに、ベテルに異教の神の像を祀る神殿を建て、祭司を配置しました(同31節以下)。

 以後、北イスラエルの王は、神に背く罪を繰り返します。列王記の記者はそのことを、「彼は主の目に悪とされることを行って、ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」と語っています(同15章34節、16章19節、30,31節、22章53節など)。

 ところで、5節の「サマリアの住民は、ベト・アベンの子牛のためにおびえ」という言葉は、ベテルのことを語っているものと考えられます。「ベト・アベン」とは、9章で学んだように、「不義、邪悪の家」という意味です。ホセアはここで、イスラエルの民はヤロブアム以来、真の神と出会うべき「ベテル(=神の家)」を、「ベト・アベン(=邪悪の家)」にしてしまったと断罪しているわけです。

 ベテルの町、ベテルの神殿がイスラエルを祝福するのではありません。金の子牛がイスラエルを守ることもありません。イスラエルを祝福されるのは、生ける真の神です。イスラエルの民を守られるのは、真の主なる神のみです。

 異教の神を祀ってまことの神を怒らせ、その保護を失った北イスラエルは、ホセアが語ったとおり、アッシリアに滅ぼされ、民は捕囚となりました。そして、今に至るまで再び王が立てられたり、王国を再建したりすることなど出来てはいません。

 「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節)と言われます。主を信じ、愛しましょう。

 主よ、私たちの耳を開いてください。日々主の御言葉に耳を傾け、御旨を深く悟ることが出来ますように。主を信じ、謙ってみ言葉に従うことが出来ますように。全身全霊をもって主を愛し、主から愛された愛をもって隣人を愛し、神の家族として互いに愛し合うものとしてください。御心がこの地に行われますように。御国が来ますように。 アーメン