「彼らの悪はすべてギルガルにある。まさにそこで、わたしは彼らを憎む。その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し、わたしは、もはや彼らを愛さない。」 ホセア書9章15節

 1節に「イスラエルよ、喜び祝うな」とあります。5節の「祝いの日、主の祭りの日に、お前たちはどうするつもりか」という言葉で、イスラエル建国を祝う三大祭に、ホセアが「喜び祝うな」と叫んでいるということが分かります。それは、イスラエルの民が自分の神を離れて姦淫しているからです(1節)。

 それで、「彼らは主の土地にとどまりえず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリアで汚れたものを食べる」(3節)と告げられます。かつて、イスラエルはエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に来ました。エフライムがエジプトに帰るとは、再び奴隷とされるということ、アッシリアで汚れたものを食べるとは、アッシリアの奴隷とされて屈辱のパンを食べさせられるということです。

 ホセアのこのような宣告が、イスラエルの民に受け入れられることはなかったようです。むしろ、「預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う」(7節)と言われるように、彼は愚か者と言われ、はたまた狂人扱いをされたのです。それゆえ、裁きを刈り取ることになってしまいます。

 冒頭の言葉(15節)に「彼らの悪はすべてギルガルにある」とあります。「ギルガル」という地名が出て来たのは、本書中これが2回目です。初出の4章15節では「お前が遊女であっても―ユダは罪を犯すな―ギルガルに赴くな、ベト・アベンに上るな」と言われていました。

 「ベト・アベン」とは「不義、邪悪の家」という意味で、そこに異教の神が祀られていることを示しています。あるいは、ヤロブアムが「ベテル(「神の家」の意)」に金の子牛像を置いて拝むようにさせ、歴代の王がその罪を離れなかったということから、ホセアはベテルのことを「ベト・アベン」といっているのかも知れません(10章5節も参照)。

 その関連で、「遊女」というのは、神殿娼婦のことでしょう。ギルガルとベト・アベンが並べられているということは、ギルガルにも異教の神が祀られ、神殿娼婦による淫行が行われていたものと考えられます。実際、12章12節(口語訳、新改訳は11節)に「ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている」と記されています。

 また、ギルガルはイスラエル初代の王サウルが、アマレクを滅ぼし尽くせとの命令に背いて上等のものを惜しんでとっておき、主への供え物としようとした場所(サムエル記上15章9,12節など)、それゆえ王位から退けられることになった場所です(同11,23節)。

 主の命令に背くことについて同23節に「反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい」と言われています。占いや偶像礼拝は主なる神の忌み嫌われることですから(申命記16章21節以下、18章9節以下など)、冒頭の言葉のとおり、「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」と言われるのです。

 ギルガルは、かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、モーセの後継者のヨシュアに率いられ(ヨシュア記3章1節以下)、祭司らの担ぐ契約の箱に先導されて(同6,11,14節)ヨルダン川を渡り(同16,17節)、約束の地カナンに入って最初に宿営した場所です(同4章19節)。

 主なる神はヨシュアにヨルダン川で12の石を拾わせ、宿営した場所に据えさせました(同3,8節)。それは、「ヨルダン川の乾いたところを渡った」(同22節)と子供らに教えるためであり、「地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためで」(同24節)です。

 そして同5章9節に「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた」と主は言われていました。ここで、「取り除く」と訳されているのが「ガーラル」という言葉で、そこから「ギルガル」という地名が生まれたということになっています。

 そのような主の御業を記念する大切な場所に、イスラエルの民は異教の神々の祭壇を築いていけにえをささげ、神殿娼婦たちによる淫行を行っていたのです。「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」(15節)というのは、このことを言っているのです。イスラエルの恥辱が取り除かれた場所、救いの御業が実現した場所が、主の憎まれる場所、民が主に捨てられる場所となったのです。

 10節に「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見出した。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオルに行った」とあります。バアル・ペオルは、モアブの地にある町です。ペオルは、モアブで礼拝されている神で、民数記25章3,5節に「ペオルのバアル」と記されています。

 エジプトを脱出した民が、モアブの娘たちと異教の神の儀式に加わり、主の怒りを招きました(同1節以下)。つまり、イスラエルの民は、エジプトを脱出し、約束の地に到着する以前から、主に背く者たちだったわけで、その意味で「彼らの悪はすべてギルガルにある」ということは、約束の地に入ったとき、その初めから彼らは偶像礼拝の罪を犯していたということでしょう。

 上述のとおり、ギルガルはイスラエルの初代の王サウルが即位したところです。そのこと自体に問題があるというわけではありませんが、イスラエルの民が王を立てるように求めたことについて、サムエルの目には悪と映ったと告げられておりました(同8章6節)。

 さらに、サムエルの祈りに主が、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」(同7,8節)と言われています。

 8章4節で「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない」と言われていましたが、それは、サムエル記上8章の出来事を指しているということも出来ます。

 私たちはどなたを王としているのでしょうか。どなたの言葉に耳を傾け、どなたの言葉に従って歩んでいるのでしょうか。絶えず心の王座を主イエスに明け渡して、王の王、主の主として拝し、その御言葉に聴き従って参りたいと思います。

 主よ、私たちは常にあなたの助けと導きを必要としています。あなたなしに生きることは、到底出来ません。あなたこそ私たちの神、あなたこそ私たちの王です。どうぞ私たちの心の真ん中においでくださり、瞬間瞬間、私たちの人生を導いてください。そうして、あなたの望まれるとおりの者とならせてください。 アーメン