「なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても、彼らはわたしに偽って語る。」 ホセア書7章13節

 預言者ホセアは、淫行の女性を妻としてめとり(1章2節)、夫に愛されていながら姦淫を犯す妻を愛せよと、再び主に命じられました(3章1節)。そのようにして、神に背いて偶像礼拝の罪を犯し続けるイスラエルを愛し続けてくださる主なる神の、深い愛と憐れみを知ったのです。

 ホセアの目には、淫行を続ける妻と主に背き続けるイスラエルが、二重写しになっているのでしょう。そして今ホセアは、自分と主とを重ね合わせながら、1人称の「わたし」という言葉で、主のメッセージを語っています(6章11節以下)。主は繰り返し、イスラエルを御自分に立ち帰らせ、神の民を回復しようと働きかけておられます(6章11節、7章1,13,15節)。

 しかし、冒頭の言葉(13節)のとおり、イスラエルは主から遠く離れ去り、主の招きに応えようとはしません。応えても、それは偽りでした(6章1節以下、4節参照)。異教の神々の儀式を行い、主には背を向けています(14節)。悪事を企みます(15節)。ねじれた弓のように空しいものに向かいます(16節)。

 この預言がホセアによって語り出されたのは、紀元前733年頃、アッシリアの支配に対抗するため、北イスラエルはアラム(=シリア)と同盟し、親アッシリア政策をとる南ユダに侵略するという状況です(列王記下16章5節以下)。

 その危機にユダの王アハズはアッシリアに援軍を求め(同7節)、アッシリアの王ティグラト・ピレセルはすぐに援軍を送ってアラムの首都ダマスコを占領し(同9節)、北イスラエルにも攻め入って、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、住民を捕囚としました(同15章29節)。

 このようにイスラエルを取り巻く事態は確実に悪くなって来ているのに、民は主を尋ね求めようともしません。それは、高慢だからと言われます(10節)。また、鳩のように愚かで悟りがないからだと言われます(11節)。

 「鳩」(ヨナ)について、岩波訳の脚注に「鳩は愛の女神イシュタルの聖なる鳥で、その鳴き声が愛のささやきとも嘆きの声とも解釈されていたという」と記されています。異教の神や異国の力に頼ることの愚かさを言っているわけです。

 「悟り」は「心」(レーブ)という言葉ですが、口語訳は「知恵」、新改訳、岩波訳などは「思慮」と訳しています。鳩が思慮、知恵を持たない鳥かどうかは分かりませんが、あるイスラエルの王はアッシリアに頼って自国を強くしようとし(列王記下15章19節)、またある王はエジプトを後ろ盾にするといったように、一貫性を持ちません。

 そうして、結局、自ら滅びを招いてしまうのです。冒頭の「なんと災いなことか」という言葉からは、諦めにも似た主なる神の悲しい思いが伝わって来ます。

 確かに神は、イスラエルの民が自ら方向転換してご自分のもとに返ってくることは、諦められたのかもしれません。しかし、それで人を救うことを諦められることはありませんでした。神は、人が心に思うことは、幼いときから悪いということを承知の上で、ゆえに人を大地から消し去ろうというのではなく、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」(創世記8章21節)と決心されるお方なのです。

 それはしかし、人の悪い行いには目をつぶり、人の悪を見ても見ないことにするということではありません。罪には裁きがあります。主は聖なる方、義なるお方です。罪を見過ごしにはなさいません。

 しかしながら、主なる神は、その裁きを私たち罪人に対してではなく、ご自分の独り子キリストの上に下し、十字架にかかられた主イエスの命の代価によって私たちを贖い、その罪を赦そうとお決めになったのです。贖いの血が流されることなしには罪の赦しはあり得ないからです(ヘブライ書9章22節)。

 ローマ書3章23,24節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあり、ガラテヤ書3章23節で「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は、皆呪われている』と書いてあるからです」と語られます。

 これは、まったく一方的に与えられた神の恵みです(エフェソ書2章8節)。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(第一テモテ書2章4節)。ここに、神の愛があります(第一ヨハネ書4章10節)。

 キリストを信じる信仰とは、この神の愛を受け止めることです。そして、神に感謝することです。そして、神を愛することです。主が「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」(6章6節)と告げられるとおりです。

 今日も、神は私たちを助け導いてくださいます。その神の御言葉を聞いたときに、心を頑なにせず、「はい」と答えて従いたいと思います。心の真ん中に主イエスを迎え、主の御心を絶えず中心に受け止めたいと思います。「愛」という漢字は、「心」を真ん中に「受ける」と書きます。神の愛を頂き、神を愛する者とならせて頂くのです。

 前からも後ろからも私たちを囲み、御手を私たちの上に置いていてくださる主に、いつも感謝しましょう。御手をもって私たちを導き、右の御手をもって私たちを捕らえてくださる主に従って歩みましょう。  

 主よ、絶えず御顔を慕い求め、主の御言葉に耳を傾けることが出来ますように。その深い御旨を悟ることが出来ますように。御言葉と御霊の御導きに従うことが出来ますように。そうして、主の御心がこの地になされるために用いられますように。 アーメン