「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので、わたしもお前の子らを忘れる。」 ホセア書4章6節

 4章以降は、3章までとはうって変わって、イスラエルを裁かれる主の言葉が記されています。1節に「主の言葉を聞け」と記されていますが、「主の言葉」というのは、この箇所と、1章1節の2箇所に出て来るだけです。即ち、「主の言葉」が、3章までの第一部と、4章以下の第二部を始める合図、鍵言葉になっているわけです。

 第一部では、預言者ホセアの結婚生活に関係する言葉で、イスラエルの回復と救いを告げていたのに対し、第二部は、イスラエルの罪を法廷で告発するような言葉になっています。これは、回復と救いの言葉を告げたけれども、思い返して、やはり裁くことにしたということではありません。

 第一部で回復と救いの言葉が告げられていますが、イスラエルはいかなる罪を犯して神に裁かれたのか、そして、どんな罪の呪いから解放され、回復と救いが与えられるのかを明らかにするために、第一部を補足する目的で、第二部が記されていると考えるべきでしょう。

 主がイスラエルの罪を告発して、「この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもない」(1節)と言われます。誠実さと慈しみは、主と民との関係、民同士の関係の真実さ、愛情の深さを示すものです。「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている」(2節)というのは、誠実さも慈しみもないことの明白な証拠です。

 冒頭の言葉(6節)でホセアは、「お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない」と語っています。ここに言われている「知識」とは、1節で「神を知ることもない」と言われているように、主を知る知識のことです。そしてそれは、主を畏れる知恵のことと言ってよいでしょう(箴言1章7節参照)。

 「わが民は知ることを拒んだので」と言われていますから、祭司には、主の御言葉を人々に教える務めがありましたが、民はそれを聞こうとしなかったということです。それだけでなく、「お前が知識を退けたので」と言われていますので、祭司自ら、主の御言葉を聞こうとしなかった、神への畏れを失ってしまっていると断罪されているのです。

 「知識を退けた」ということについて、8節に「彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり、民が罪を犯すのを当てにしている」と記されています。これは、サムエル記上2章12節以下で、シロの祭司エリの息子たちが犯していた罪と同様です。おのが腹を満たすため主への供え物を軽んじ、神を侮ったので(同2章17,30節)、エリの家に裁きが下りました。

 特に、「淫行にふける」(10節)という表現で、異教の神々を祀る偶像礼拝に民を巻き込む罪が告発されています。ネバトの子ヤロブアムの罪(列王記上12章28節以下、13章33節)が、彼に続く王たちから祭司、民に至るまで浸透していて、神が遣わされる預言者の声に耳を貸そうとしなかったということです(同17章7節以下)。

 それを「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う」(11節)、「淫行の霊に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふけり」(12節)、「彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね」(18節)、「欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける」(19節)という言葉で言い表しています。

 「沈黙させられる」(ダーマー:6節))と訳されている言葉は、「止める、止めさせる、破壊される、荒廃する」という意味の言葉で、口語訳は「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」、岩波訳も「あなたが知識を捨てたので、わたしの民は無知のために滅ぼされる」と訳しています。イスラエルが滅ぼされるのは、彼らが主の知識を退け、主の教えを拒んだからだというのです。

 それを「沈黙させる」(5節)、「沈黙させられる」(6節)と訳すのは、詩編の「国々の偶像は金銀に過ぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない」(詩編115編4,5節)、「偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」(同8節)という言葉から、神の裁きを受けて、口のきけない偶像と同じようにされたと考えたらよいのでしょう。

 私たちは、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(第一ペトロ2章9節)。私たちには、主を知ること、すなわち神の子として主と深く交わることの出来る恵みと特権が与えられており(ヨハネ福音書1章12節参照)、そして、主の愛と恵みを証しする務めに立てられています。

 知識がないために滅ぼされるということがないように、知識を捨てたので退けられるということがないように、知ることを拒んで沈黙させられることがないように、御言葉を忘れて主に忘れられるということがないように、日々主の御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。

 主よ、私たちの歩みの上に、主の恵みと慈しみが絶えず豊かにありますように。御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むことが出来ますように。御霊に満たされ、主の証人として御業に励むことが出来ますように。御心がこの地に行われ、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン