「日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る。」 ダニエル書8章14節

 ベルシャツァル王の治世第3年、即ち紀元前551年ごろに、ダニエルは再び幻を見ました(1節)。初めの幻が「ベルシャツァル王の治世元年」(7章1節)で、その2年後に次の幻を見たということで、8章を7章につなげているわけですが、日本語の読者には分からない違いがあります。それは、7章までアラム語で記されていましたが、8章からヘブライ語になることです。

 このときにダニエルが見たのは、エラム州の都スサのウライ川の畔で(2節)、一頭の雄羊が川岸に立っているという幻です(3節)。スサは、ペルシア帝国の冬の首都で、歴代の王が住んでいたところです(ネヘミヤ記1章1節、エステル記1章2節も参照)。

 雄羊は二本の長い角を持っており(3節)、それは20節でメディアとペルシアの王のことであると説明されています。つまり、ベルシャツァル王が殺され(5章30節参照)、バビロン帝国がメディアとペルシアにとって代わられることを示しています。

 ただし、メディア王国は、バビロンが滅びる前の紀元前550年に、ペルシア王キュロスによって滅ぼされています。ということから、このメディアとペルシアの王とは、ペルシア帝国の王ということになります。

 その後、雄山羊が雄羊を打ち倒します(5~7節)。雄山羊は21節でギリシアの王のことと説明されており、マケドニア王国の大王アレキサンダーを指していると思われます。その後に、非常に強大な王が現れます。「一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり」(9節)とは、そのことです。それは、セレウコス朝シリアの王アンティオコス・エピファネスを指していると考えられます。

 ダニエルは、その角が「麗しの地」へと力を伸ばすのを見ました(9節)。「麗しの地」とはイスラエル、就中エルサレムを指しています。「天の万軍に及ぶまで力を伸ばし、その万軍、つまり星のうちの幾つかを地に投げ落とし、踏みにじった」(10節)とは、帝国内の諸宗教とその祭儀にアンティオコスがなした攻撃を指していると考えられます。

 アンティオコスは日ごとの供え物、即ちモーセの律法に規定されている朝夕の供え物(出エジプト記29章38節以下)を廃し、その聖所を倒しました(11節)。エルサレム神殿の祭壇を破壊し、そこに異教の神の祭壇を立てて冒涜したのです。

 エピファネスとは、神が現れるという意味ですから、彼は傲慢にも自らを神の座に置く称号をつけていたわけです。そして、エルサレムの神殿で異教の神々を礼拝することを強要されたために、イスラエルの民は苦しめられました。

 それはそうと、アンティオコスが王位についたのは紀元前175年ですから、ダニエルはずいぶん先のことを幻で見ていることになります。これは、知者として名高いダニエルの名を借り、バビロンやペルシアの王になぞらえて、シリアの王アンティオコスに苦しめられているイスラエルの民に向かい、神の言葉を伝えようとしているわけです。

 しかしそれは、捕囚の憂き目を見たイスラエルは、捕囚からの解放後もずっと苦難の道を歩んで来たということを示しています。一難去ってまた一難と言わんばかりです。古くはエジプト、アッシリア、バビロン、次いでペルシア、それからギリシア、そしてシリア、その後にローマがパレスティナを支配します。

 ですから、イスラエルの民は、自らの手で完全な独立自治を勝ち取りたいと願い続けます。主イエスが登場してきて、その奇跡を目の当たりにした群衆が、主イエスを王に推し立てようとしたのも、その現れです(ルカ福音書19章38節、ヨハネ福音書6章15節など)。

 しかし、そのような願いはなかなか実現されません。紀元70年にローマ軍によってヘロデの神殿を破壊されてからは、今日に至るまで、自らの神殿さえ持つことも出来ないままでいます。現在、エルサレムはイスラム教の聖地とされ、ヘロデの神殿跡にイスラム教の神殿(金のドームと岩のドーム)が建てられています。

 ただ、もうひとつ大切なメッセージがあります。それは、苦難は永遠のものではないということです。「いつまで続くのか」という問いに対して(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、「日が暮れ、夜が明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る」という答えがありました。

 「日が暮れ、夜が明けること」で2回とカウントすると2300回は1150日、つまり三年余ということになり、7章25節の「一時期、二時期、半時期」、すなわち3年半と符合することになります。「7」が完全数で、その半分ということですから、文字通り三年半というよりも、苦難はいつまでも続かないという意味と考えればよいでしょう。

 イスラエルの民はこのメッセージを受け止め、今でも神による国と神殿の再建を堅く信じているわけです。どんな状況であっても主に信頼し、御言葉の成就を待ち望む信仰を、私たちも学びたいと思います。

 パウロは、「だから(復活の信仰のゆえに)わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章16,17節)と言いました。

 パウロが同11章23節以下に彼が味わった苦難がリストアップされていますが、それは、「軽い艱難」とはおよそ思われません。けれども、それを「軽い」と言わしめるほどに、彼の心には復活の命に与る希望が満ち、そのときに受ける永遠の栄光に比べれば、艱難は「一時」のことと言い得たのです。

 どんなときでも、主に信頼し、御言葉の成就を待ちつつ、主を仰ぎ、賛美と祈りを御前にささげて参りましょう。

 主よ、どうか私たちの悩みに目を留め、苦しみから解放してください。暗闇に真実と愛の光を灯してください。私たちの主こそ、真実であり、また希望と慰めの源だからです。どんなときにも主を信頼し、御言葉は必ず実現することを信じ待ち望む者としてください。御業のために用いてください。御名があがめられますように。 アーメン