「神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしは何の危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」 ダニエル書6章23節

 ダニエル書に登場して来る三人目の王は、メディア人ダレイオスです(1節)。歴史上、メディア人ダレイオスの存在を確認することができず、メディア人の帝国も歴史的に存在していません。

 「メディア人ダレイオス」をペルシア帝国二代目の王ダレイオス1世のことと考えるという学者もないではありませんが、彼が王位に就いたのは36歳で、「既に62歳であった」(1節)とは合致しません。また、彼が即位したのが紀元前522年です。紀元前605年に少年だったダニエルが(1章1節以下、6節)、ダレイオス1世即位の年まで生存していたとは、考え難いところです。

 29節の「ダレイオスとペルシアのキュロス」を、「ダレイオス、即ちペルシアのキュロス」と読むという学者がいます。保守的な立場では、最も受け入れ易い解釈だろうと思います。その意味で、ダニエル書は歴史的事実を正確にというスタンスではなく、信仰において大切なことを、歴史物語の体裁で物語り、聞く者を教え励ます書物といってよいでしょう。

 ダレイオスは帝国に120人の総督を置き(2節)、その上に3人の大臣を置きました(3節)。ダニエルは大臣の一人でしたが、ダレイオスはダニエルがすべてに傑出しているのを見て、王国全体を治める宰相に任じました(4節)。バビロンに次ぐメディアにおいても宰相となったという状況です(2章48節)。

 ヤコブの11番目の息子ヨセフが、ファラオの夢を解き、その知恵が認められて、エジプトの宰相に取り立てられたのと同様(創世記41章37節以下)、背後に神の御手があり、神の支配が異邦世界にも広く及んでいることを示しています。

 ところが、ダニエルが重く用いられることを妬んだ他の大臣や総督たちは、ダニエルを失脚させようと画策します。けれども、なかなか弱点が見当たりません(5節)。そこで、ダニエルの信仰を口実にして彼を失脚させようと考えました(6節)。

 それは、向こう一ケ月間、ダレイオス王以外の人間や神に向かって願い事をする者は、だれでも獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令を、ダレイオス王に発布してもらうことです(8節以下)。本来であれば、そのような勅令を出すべきかどうか、宰相としたダニエルに相談するところなのでしょうけれども、王は彼らの思いどおりに勅令を出してしまいます(11節)。

 しかしながら、禁令の発布を知った後も、ダニエルは日に三度、自分の信じる主なる神に祈りと賛美をささげることをやめませんでした(11節)。役人たちはダニエルの禁令違反を見届けた後(12節)、そのことを王に訴え出て、刑の執行を求めます(13,14節)。

 王は何とかダニエルを救いたいと考え、日が暮れるまで努力しますが(15節)、自分の出した勅令を引っ込めることも出来ず(16節)、刑を執行するため、ダニエルを引き出すことになります(17節)。王は、「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」(17節)と祈りました。王には、ダニエル一人を救う力がなかったのです。

 食を断ち、眠れぬ夜を過ごした王は(19節)、夜明けとともに獅子の洞窟に行き(20節)、ダニエルに「生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか」(21節)と呼びかけます。王は断食、徹夜でダニエルの保護を神に祈り続けていたわけです。

 それに対してダニエルは、「王様がとこしえまでも生き長らえられますように」(22節)と答えた後、冒頭の言葉(23節)を語りました。自分が無事であった理由を、①神が天使を送って獅子の口を閉ざしてくれた、②神に対する無実が認められた、③王に対しても背いたことがないと告げています。

 神に信頼し、誠実に歩んでいたダニエルの信仰と、ダニエルの身を案じたダレイオス王の祈りが神に届き、ダニエルを獅子の口から守ったというかたちです。王は喜んでダニエルを洞窟から出します(24節)。そして、ダニエルを陥れようとした者たちを家族もろとも洞窟に投げ込み、獅子の餌食としました(25節)。

 ここで、「お前がいつも拝んでいる神は、獅子の口からお前を救い出す力があったか」という言葉は、私たちが困難な問題に直面するときに迫ってくる問いです。神は生きているのか。この困難な状況から救ってくださるのか。そもそも神がおられるなら、なぜこんな問題が降りかかるのか。

 ダニエル書はこのような問いに対して、神は生きている。問題から救い出してくださるということを示しています。なぜ災いが降りかかるのか、それはだれにも分かりません。ダレイオス王は何故、ダニエルを陥れようとしていた者たちの提案をすんなりと受け入れたのか、その時、何故宰相の意見を求めなかったのか、よく分かりません。

 しかし、困難な状況に出会えば、私たちは真剣に神を求め、神に祈ります。そして、神の答えを聴きます。私たちの祈りを聞き届けられる神がおられるからこそ、問題を耐え忍び、乗り越え、解決に導かれるのです。あとになって振り返ってみると、問題が私たちを神に近づけ、信仰が強められたことに気づきます。そのために、神がその状況になるのを許されたのでしょうか。

 私たちもダニエルの信仰に倣って、どんなことに直面しても朝ごと夕ごと忠実に神の前に進み、賛美と祈りをささげましょう。神の御言葉を聴きましょう。

 主よ、自然災害に見舞われたり、戦乱により、大きな悲しみや不安の中で過ごしている人々がいます。今日も命の御言葉を聴かせてください。真理の光のうちを歩ませてください。主イエスこそ、私たちの道であり、真理であり、命だからです。 アーメン