「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくても、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お立てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」 ダニエル書3章17,18節

 バビロンの王ネブカドネツァルが金で像を造りました(1節)。高さ60アンマといえば、およそ27mという大きさです。奈良の大仏が座高およそ15mだそうですから、立ち上がればそれくらいの身長になるでしょうか。

 王が巨大な像を造ったということであれば、自分自身の像ではないかと想像されるのですが、12節の「王様の神に仕えず」、14節の「わたしの神に仕えず」、18節の「王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも」という記述から、それはネブカドネツァルが仕え拝していた神の像だったということが分かります。

 この像の除幕式に、帝国中の高官、役人たちが召集されました(2節)。そして、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音が聞こえたら、神の像の前にひれ伏し、拝むことが命じられました(5節)。そして、ひれ伏して拝まない者は、燃え盛る炉に投げ込まれるという厳罰がありました(6節)。

 2章47節で王がダニエルに「あなたの神はまことに神々の神、すべての王の主、秘密を明かす方にちがいない」と言い、ダニエルを長官として立てたばかりでした。それなのに、なぜそのような像を造り、拝ませようとしているのでしょうか。

 勿論、ネブカドネツァル王が主なる神を信じる者となったというわけではありませんし、ローマ時代の皇帝礼拝のように自分自身を神格化しようとしていたというわけではなかったでしょうから、宗教をとおして国家を統一しようとしていたのでしょう。あるいは、神の名を利用して自分の権力を誇示しようとしていたのでしょうか。

 王の厳命に対し、ユダヤ人のシャドラク(ハナンヤ)、メシャク(ミシャエル)、アベド・ネゴ(アザルヤ)、つまりダニエルの三人の友人たちは像を拝みませんでした。ここにダニエルの名が入れられてはいませんが、ダニエルも当然拝まなかっただろうと思います。

 ところが、三人のことが王に密告されます(9節以下)。「ユダヤ人を中傷しようとして」(8節)とあることから、捕囚でありながら行政官に任じられたことを妬ましく思っていたのでしょう。三人は王の前に立たされます(13節)。そして、像を拝まなければ炉に投げ込まれることが、改めて言い渡されます(14,15節)。

 その際、「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」(15節)と尋ねています。当然、自分の手から救い出すことのできる神などいないと考えての発言です。ここに、神を神とも思わず、さながら自分を神の地位において、真の神を排除しようとしている愚かさが示されます。

 冒頭の言葉(17,18節)は、その王の言葉に対する三人の答えです。絶対的権力者と思われている王の前に、捕囚から取りたてられた三人が極めて冷静に、主なる神への忠実な信仰を表明しているのです。憤った王は、炉を通常の七倍も熱く燃やし、三人を縛り上げて放り込みました(19節以下)。冷静な三人と対照的に、激している王の姿は滑稽に映るでしょう。

 炉は激しく燃えていて、三人を投げ込む係の男たちさえ焼き殺しましたが(22節)、しかし、三人は何の害を受けることもありませんでした(25,27節)。それを見たネブカドネツァル王は、三人を炉から引き上げ、イスラエルの神を賛め称えました(28節以下)。

 大変痛快な物語です。行政官に任命されているとはいえ(2章49節)、捕囚の身の三人が、帝国の頂点に君臨する王に向かって、臆することなく自らの信仰を言い表し、最後には、逆に王が彼らの神を称えるようになったのです。

 勿論、彼らの信仰表明は、まさに殉教を覚悟してのものでした。自分たちは神が王の手から自分たちを救い出してくださると信じているけれども、たといそれが適わなくても、つまり、焼き殺されることになっても、王の神々に仕えはしないし、金の像を拝むこともしないというのです(18節)。そして神は、彼らの信仰に答えて、炉の火から、王の手から彼らを守られました(25節)。

 信仰のゆえに迫害される人々がいます。信仰を捨てるように強要されることがあります。私のような臆病者は、そのような迫害には耐えられないかも知れません。脅しに屈して、心ならずも金の像を拝むかも知れません。そして、人々はそんな腰抜けの私を嘲り笑うことでしょう。けれども、そんな弱い私に目を留めてくださる方があります。それは、主イエスです。

 三人が燃え盛る炉の中に投げ込まれたとき、もう一人の人がそこにいました。ネブカドネツァル王は、「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている」(25節)と言っています。神の御子キリストが、三人を火に投げ込まれないようにしたというのではありません。燃え盛る火の中に共におられたのです。そして、三人を完全に守られました。

 同様に、主イエスは弱く苦しむ私たちと共におられ、私たちの弱さや苦しみを引き受けてくださいます。ご自分を三度否むペトロに対して、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22章32節)と言われた主です。ペトロは、この主イエスの祈りに支えられて、再び立ち上がることが出来ました。

 私たちも、このお方の深い憐れみのゆえに罪赦され、神の子として永遠の命に活かされる恵みに入れられています。恵みの主に信頼し、その御言葉に日々耳を傾けましょう。感謝をもって主の御名を呼び、祈りましょう。聖霊の助けを頂き、御心を行う者としていただきましょう。

 主よ、どうか試みにあわせないで、悪からお救いください。弱い私が、真の主なる神を離れて他の神々を祀り、拝むことがありませんように。絶えず主を仰ぎ、常に主イエスに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と言い表しながら、死に至るまで忠実に主に従って歩み、御心を行う者とならせてください。 アーメン