「神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て、知者に知恵を、識者に知識を与えられる。」 ダニエル書2章20,21節

 1節冒頭の「ネブカドネツァル王が即位して2年目」とは、紀元前604~3年ごろということになります。ということは、ダニエルたちが王に仕える者として選び出され、3年の養成期間を過ごしているときということになります(1章3節以下)。

 ただ、それでは25節の「ユダの捕囚の中に、一人の男が見つかりました」という言葉と時期が合いません。2年目というのは、ヨヤキン王がバビロン軍に降伏して捕囚となった「バビロンの王の治世第8年」(列王記下24章12,15節:第一次バビロン捕囚:紀元前587年)の翌年、バビロンの王ネブカドネツァルの治世第9年のことと考えた方が良さそうです。

 王は何度か夢を見て不安になり(1節)、占い師、祈祷師、まじない師、賢者たちを呼び出して夢解きを求めます(2,3節)。それも、どんな夢を見たのかを言い当てた上で、その解釈を告げよ。出来なければ体を八つ裂きにする。しかし、正しく解釈してくれれば、贈り物と大いなる名誉を授けようというのです(5,6節)。

 余談ながら、4節の「賢者たちは王にアラム語で答えた」という言葉に続く、カギ括弧で記された賢者たちの発言から7章28節まで、アラム語で記されています。「アラム語で」というのが、ここから本文がヘブライ語からアラム語に変わるという後代の書き込みだろうと、岩波訳の注に記されています。日本語でダニエル書を読む私たちには、何のことやらという話ですが。 

 話を元に戻して、夢を言い当て、その上で夢を解釈するよう求める王に対し、賢者たちは、そんなことは誰にも出来はしないと答えると(10,11節)、王は激しく憤り、バビロンの知者と言われる者たちを皆殺しにせよと命じます(12節)。とんでもない無理難題です。権力者というものは、時としてこのように頑迷に振舞うものだと言わんとしているのでしょうか。

 しかしながら、この無理難題に答える者がいました。それは、ダニエルです。ダニエルは、三人の友と共に天の神に憐れみを乞い、王が見た夢の秘密を求めて祈りました(18節)。すると、天の神は夜の幻を通して、夢の秘密を明かされました(19節)。

 ダニエルは神を賛美した後、早速王に拝謁し、王の見た夢を告げ(31節以下)、夢の秘密を解き明かしました(37節以下)。巨大な像の金の頭はネブカドネツァルでバビロンを示し(38節)、銀の胸と腕はメディアが次に興ること、第三は青銅の腹と腿でペルシア(39節)、第四は鉄の脛でアレキサンダー率いるギリシアが登場します(40節)。

 それが鉄と陶土の足になるというのは(41節以下)、ギリシアがシリア・セレウコス朝とエジプト・プトレマイオス朝に分裂することを示していると考えられます。ダニエル書は、この段階にあるときに記されたのです。

 この巨大な像を、人手によらず切り出された一つの石(34節)、即ち、天の神が起こされた国が打ち砕く(44節)と告げられます。バビロンをメディアとペルシアが砕き、ペルシアをギリシアが砕き、そして、ギリシアが分裂した後、ローマがそれらを砕きます。

 このように王の無理難題に答えることが出来たことについてダニエルは、自分に世の中の誰にも勝る優れた知恵があるからではなく、将来起こるべきことを王に知らせるために神が夢を見せ、その夢を解釈して意味をよく理解することができるようにしてくださったのだと語っています(28節以下、45節)。

 ダニエルの夢解きを聞いた王は、即刻ダニエルを宰相として立て、その友らも行政官に任じました(48,49節)。さながら、エジプトに奴隷として売られ、だれも解き明かせなかったファラオの夢を解き明かし、奴隷で囚人という立場からエジプトの宰相として取り立てられたヨセフのようです(創世記41章1節以下、41,42節)。

 それを聞いたバビロン王ネブカドネツァルは、ダニエルの前にひれ伏して拝します(46節)。そして、「あなたがこの秘密を明かすことができたからには、あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主、秘密を明かす方にちがいない」(47節)と言いました。

 即ち、バビロンの王は、ダニエルを通してイスラエルの神の前にひれ伏したのです。ここに、主なる神が、イスラエルだけでなく、バビロンの人々にとってもまことの神でもあられることが明示されます。

 また、その夢解きを通して、人の造るものはどんなに立派に見え、あるいは実際に優れているとしても、それは有限の存在に過ぎないことを示されました(37節)。今、権勢を誇り、栄耀栄華を誇っているバビロンも、やがて崩されるときが来ます(41,45節)。

 ネブカドネツァルの権威は、天の神から授けられたものです(37節)。それは、ネブカドネツァルによって、神の御業が行われるためなのです。そのことをわきまえず、分を超えて驕り昂ぶり、神の栄光を自分のものにしようとする者は退けられます。かつてのイスラエルがそうでした。それゆえ、バビロン捕囚の憂き目を見たのです。まさに、「奢れる平家は久しからず」です。

 神を畏れることこそ、知恵のはじめなのです(箴言1章7節)。主にまことの知恵を求めましょう。すべてのものには終わりがあります。天の神はすべての国々を打ち滅ぼすために一つの国を興され、永遠の滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、永遠に続くと告げられます(44節)。

 これは、主を神と仰ぐ神の国イスラエルこそ、すべての国を討つ滅ぼすために熾された国だと語られているものと思われます。主なる神の権威、権能を持ってすれば、それは容易いことだと、ダニエル書の著者は考えているのでしょう。

 しかし、文字通りの意味で著者の考えていたことは実現しませんでした。しかしながら、それは預言が完全に外れたという話ではありません。彼に与えられた「神の国」の希望は、違ったかたちで実現するのです。

 そのために主なる神が用意されたのは、天軍天使たちなどではありません。御子キリストをこの世にお遣わしになったのです。御子キリストが十字架によって敵意という隔ての壁を取り壊され、ユダヤ人も異邦人もなく、男も女もなく、すべてのものを一人の新しい人に作り上げて平和を実現されました(エフェソ書2章14~16節、ガラテヤ書3章28節)。

 主イエスが十字架で殺されたとき、それは、神のご計画が水泡に帰したかのようでした。しかし、知恵と知識の宝はすべて、このキリストのうちに隠されています(コロサイ書2章3節)。神の愚かさは人の賢さよりも賢く、神の弱さは人の強さよりも強いのです(第一コリント書1章25節)。

 冒頭の言葉(20,21節)のとおり、ダニエルがしたように私たちも神の前に膝をかがめ、主の御名を讃え歌いましょう。「神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て、知者に知恵を、識者に知識を与えられる」と。

 「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ書5章18,19節)とあるごとく、聖霊の満たしと導きにあずかり、主の御心を悟り、心から賛美をささげましょう。 

 命であり、甦りであられる主よ、主イエスこそ道、真理、命です。常に主を畏れ、主に従って歩み、御もとに進ませてください。更に深く主と交わり、絶えずほめ歌を歌わせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心が行われますように。御業のために用いられる者としてください。 アーメン