「侍従長は彼らの名前を変えて、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。」 ダニエル書1章7節

 ダニエル書は、「ユダの王ヨヤキムが即位して三年目」(1節、紀元前605年頃)にバビロンの捕虜となったダニエルに名を借りた著者が記しているという構成になっています(7章1節以下参照)。

 列王記下24章1節に、ヨヤキムの統治下、ネブカドネツァルに攻められて、3年間バビロンに隷属した後、反逆したと記されています。バビロンの王ネブカドネツァルは、紀元前605年に即位して、エジプト軍をカルケミシュの戦いで打ち破り、パレスティナの権益を手に入れました。その勢いでエルサレムに攻めて来たのでしょう。

 ただし、エルサレムを包囲して神殿祭具の一部を手中にしたというのは、ヨヤキムが反逆した後、再び攻め寄せてヨヤキムの子ヨヤキンを捕囚とした紀元前597年のことでしょう(列王記下24章10節以下、第一次バビロン捕囚)。

 本書の中心部分はアラム語で書かれています。恐らくもともとほぼ全体が当時の国際語であるアラム語で書かれ、後に、1章1節から2章4節まで、そして8章から12章までが、ヘブライ語に翻訳されたのようです。

 アラム語、ヘブライ語の用法は、主に紀元前2世紀ごろに用いられたものと考えられています。ということから、本書が1節で言われているような捕囚前ないし捕囚時代の著作ということは、有り得ないということになります。

 本書は、1章から6章までダニエルと三人の友人たちの英雄物語で、小説形式で記された物語は、その語彙や知識から、ペルシアとヘレニズムの影響を強く受けていることが分かります。一方、7章から12章までに出て来る黙示的な幻は、紀元前2世紀初めに書かれたと推定されています。

 注解者たちは、現在見られるかたちになったのは、シリアのアンティオコス・エピファネスによってパレスティナが支配されていた紀元前2世紀で、ギリシア文化の強制によってユダヤ人たちが大いに悩まされたその治世の終わり近く、紀元前165年頃のものであろうと言います。

 著者は、アンティオコスの政治に抵抗した敬虔派ユダヤ教徒(ハシディーム)の一員であろうと考えられます。そのグループから、死海の畔にあるクムランで共同体を形成するために荒れ野に出て行った人々がいます。その他の人々は、後にファリサイ派として歴史に登場して来ます。

 私たちキリスト教徒の持つ聖書では、ダニエル書は「預言者」の書の一つとされていますが、ヘブライ語聖書(マソラ本文)では、ダニエル書は詩編やエステル記、エズラ記などと並んで「諸書」に区分されています。7章からの黙示的な幻を見れば、預言者の中に加えても良さそうですが。

 書名となった「ダニエル」については、「イスラエル人の王族と貴族の中から、体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年」(3,4節)で、「ユダ族出身」(6節)と紹介されています。

 捕虜となっている者の中にそのような少年がいるということは、ヨヤキムの代ではなく、攻め寄せたバビロンに降伏してヨヤキン王と王族、主な者たちが捕囚となった紀元前597年のことと考えた方が良さそうです。その捕囚の民の中から優秀な若者を選んで宮廷で仕えさせることにしたのです(3~5節)。

 そこに、ユダ族出身の四人の若者がいました。ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤです(6節)。侍従長は、冒頭の言葉(7節)のとおり、彼らの名前をバビロンの名前に変えました。名前を変えるというのは、それ自体何でもないように見えますが、これは自分たちの文化を相手に強要し、相手の文化を否定するという象徴的な出来事です。

 古くは、ヤコブの子ヨセフがエジプトの宰相となるとき、ツァフェナト・パネアという名前を与えられたということがありました(創世記41章45節)。近くは、戦時中、日本が併合した国で宗氏改名を行いました。

 ダニエルとは「神が裁きたもう」という名で、神の正義を信じる親がわが子にその名をつけたわけです。それがベルテシャツァルと変えられました。これはバビロンの言葉で「王の生命をお守りください」という意味です。親がつけた名が奪われ、別の名で呼ばれる屈辱は、経験してみないと分からないでしょう。自分でつけるペンネームや友だちからつけられるニックネームなどとは、わけが違います。

 自分の人生を左右する出来事に出会い、改名することもあります。たとえば、主イエスの弟子となった漁師シモンがペトロと呼ばれ(マタイ福音書16章18節)、迫害者であったサウロがパウロと名乗っています(使徒言行録13章9節)。

 ヤコブはヤボクの渡しで神の使いと争ったとき、神の使いから「イスラエル」の名前を与えられました(創世記32章29節)。アブラムがアブラハムに(創世記17章5節)、サライがサラに(創世記17章15節)、名前を変えています。そこには、新しい人生のへ神の祝福があります。

 ダニエルの改名は、彼が望んだものでも、人生を左右する出来事に出会って、神の祝福の名前がつけられたというのでもありません。彼自身ではどうすることも出来ない力に押さえつけられるかのような出来事です。

 しかし、そのような状況にあっても、ダニエルが自分を見失うことはありませんでした。8節の「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」たというところにそれが表われています。神の御前に、清くあることを願っていたわけです。

 私たちは主イエスを信じて、「クリスチャン(キリストのもの)」と呼ばれる者となりました。この地上の生涯を、主イエスを信じる信仰によって歩み通し、御国に凱旋するとき、主なる神が私たちに、祝福による新しい名を賜ることでしょう。

 そのときまで、主なる神を信じ、主のみ言葉に日々耳を傾けつつ、御霊に満たされて真理の道、命の道をまっすぐに歩みましょう。

 主よ、御子キリストは人間となってこの世に来られたとき、イエスと名付けられ、また、インマヌエルと呼ばれました。十字架の死によって贖いの業を成し遂げられて、高く上げられ、あらゆる名にまさる名が授けられました。キリストに倣う者として、日々御言葉に耳を傾け、御霊の力を受けて宣教の使命を果たし、御名を崇めさせてください。主の祝福が常に豊かにありますように。 アーメン