「都の周囲は一万八千アンマである。この都の名は、その日から、『主がそこにおられる』と呼ばれる。」 エゼキエル書48章35節

 エゼキエル書の最後の章です。47章13節以下、回復されたイスラエルの国土を、12部族に嗣業の地として再分配する際の境界線が記されています。東西は明瞭です。東の端はヨルダン川で(47章18節)、ギレアドの地は国土に含まれてはいません。そして、西の端は地中海です(同20節)。

 南の端は死海の南からカデシュを経てエジプトの川に至る線です(同19節)。一方、北の端はどのラインになるのか、正確なところはよく分かりません(同15~17節)。「レボ・ハマト」(同15節:「ハマトの入り口」の意)は、ダビデ、ソロモン時代もイスラエルの北限として記録されていました(列王記上8章25節)。

 都の北側に7つの部族、南側に5つの部族が配置され、各部族に平等に分配されています。記述に従えば、一番北にダン族の領地があり(1節)、そこから南へ順番にアシェル族(2節)、ナフタリ族(3節)、マナセ族(4節)、エフライム族(5節)、ルベン族(6節)、ユダ族(7節)と並んでいます。

 これら7つの部族の嗣業の地の南に、主に献げられた献納地が配置され、その中央に聖所が置かれます(8,10節)。それは、祭司たちの領地とされています。その南にレビ人の領地があります(13節)。

 その南が一般の居住地と牧草地で、その中央に都が置かれます(15節)。献納地と都の南に、ベニヤミン族(23節)、シメオン族(24節)、イサカル族(25節)、ゼブルン族(26節)、ガド族(27節)と、領地が並んでいます。

 イスラエルの歴史上、このように国土が分配されたことはありません。聖域の北に配置されたダンからユダまでの7部族は、以前の順序をほぼ踏襲してはいるようですが、南の5部族は何故このような配置になるのか、よく分かりません。また、聖域と都を挟んで北にユダ族、南にベニヤミン族というのは、ヨシュアの時に分配されたのとは逆の配置です。

 また、ソロモン王の没後、イスラエルが南北に分裂し、ユダ族とベニヤミン族を除く10部族が北イスラエル王国、ユダ族とベニヤミン族は南ユダ王国になりました(列王記上12章、新共同訳聖書巻末地図「5.南北王国時代」参照)。

 北イスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされました(列王記下17章)。エゼキエルが生まれる百年ほど前のことです。その際、主だった者はアッシリアの地に移され、残った民は、東方諸国から植民された人々と混血して、政治的にも、宗教的にもイスラエルの民としての独自性を失い、ばらばらにされてしまいました。その後、彼らが国家として再構成されたことはありません。

 ヨハネ福音書に4章9節に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」という表現がありますが、サマリア人とは、東方諸国からの移住民と混血した人々のことであり、アッシリアに捕らえ移された北イスラエル10部族の民の所在は、全くもって不明です。

 ということですから、ここに語られているエゼキエルの預言は、いわゆる血筋によるイスラエル12部族の再構成、イスラエル国家の再建ということではないでしょう。「12」という完全数を用いて、主なる神を信じ、主を礼拝するあらゆる人々が、新しいイスラエルの民として、神の御前に差別されることなく平等に嗣業の地を獲得することが出来るということでしょう。

 30節以下には、都の門の名前が列挙されています。ひとつ特徴的なことは、「レビの門」と「ヨセフの門」の存在です。通常、12部族の名を挙げるときには、嗣業の地の分配で分かるように、レビ族ははずされ、その代わりにヨセフ族が「マナセ族」と「エフライム族」の二つに分けられます。

 それは、レビがイスラエルの内に領地を得ず、神に仕えることを嗣業としたため、レビの領地をヨセフ族が受け取って二つの領地を治めることになり、一つを兄息子マナセ族、もう一つを弟息子エフライム族が受けたということなのです(47章13節、創世記48章5,6節参照)。

 ですから、都の門の名前に「レビ」が加えられているというのも、すべての者が神の都に入ることが出来る、そこから除外されるものは一人もいないという、大変重要なメッセージであるように思います。

 そして、この都に新しい名前がつけられました。それは、冒頭の言葉(35節)にあるとおり、「主がそこにおられる(アドナイ・シャンマ)」という名前です。

 新しいイスラエルにとって最も大切なことは、主がそこにおられるということです。都の守りは大丈夫か、町の城壁は堅固か、神殿は立派に建設出来たかということではないのです。主の臨在こそ、私たちの栄光の望みなのです(コロサイ書1章27節)。

 この幻を見ているエゼキエルは、今はまだ捕囚の身でバビロンのケリテ川の畔にいます。辛く苦しい奴隷生活が続いていますが、しかし、彼の心には新しい都が出来ました。「主がそこにおられる」のです。回復の希望が湧き上がっています。

 私たちの主イエス・キリストは、「インマヌエル」と唱えられるお方です〈マタイ福音書1章23節〉。それは、神が私たちと共におられる、という意味です。私たちと共におられ、私たちの内におられる主を仰ぎ(ヨハネ福音書14章17,20節)、絶えず感謝と賛美をささげましょう。

 主よ、御言葉を感謝します。日々、主の御言葉がこの身になりますように。私たちの心を神の宮としてその内にお住いくださり、日毎に新しい恵みに与らせてください。 アーメン