「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。」 エゼキエル書47章8節

 預言者エゼキエルは、手に麻縄と測り竿を持つ青銅のように輝く(40章3節)主の使者によって、神殿の入り口に連れ戻されました。そうして、水が神殿の敷居の下から湧き上がり、東に流れ出して、祭壇の南側から神殿の南壁の下を流れて行くのを見せられます(1節)。

 主の使者が手に持っている測り縄で1千アンマ(約500メートル)を測り、水の中を渡ると、水はくるぶしまででした(3節)。次に1千アンマを測って渡ると、膝の深さです。次の1千アンマを測るところでは、腰に達しました(4節)。さらに1千アンマを測ると、もはや足がつかず、泳がなければ渡ることの出来ない深い川となっていました(5節)。

 他の支流などから合流して水量が増したというわけではありませんから、くるぶしまでの浅い川の流れが泳がなければ渡れない深い川になるということは通常あり得ず、これはまったくの幻です。神殿から始まった主なる神の御業が次第に大きく豊かに増え広がっていく様子が描かれていると考えられます。

 この川が東の地域を流れて方向を変え、アラバに下り、海に入ります(8節)。アラバとは、「荒れ地」という言葉で、ガリラヤ湖から死海を経てアカバ湾にまで至るヨルダン渓谷の荒涼とした地の総称です。「海」とは死海のことでしょう。死海は「塩の海」、「アラバの海」とも言われます(申命記3章17節、ヨシュア記3章16節など)。

 死海は、海抜マイナス392mの低地にあり、ここからはどこにも水が流れていきません。ヨルダン川から流れ込む水の量と、蒸発する水の量がほぼ等しいので、水が溢れることも干上がることもありません。そのために、塩分が濃縮されて、普通の海の6倍の塩分を含んでおり、どんな人でも沈むのは困難です。その塩分のために生物が生息できないので、「死海」と言われます。

 ナトリウムをはじめ、カリウムやマグネシウムを多く含み、鉱物資源は豊かなのですが、それゆえに生物が生きられないというのは、私たちの生活が物質的にどんなに豊かであっても、その豊かさが私たちの幸せな生活を保障するわけではないということに通じるような気がします。むしろ、財産が多いために争いも多くなるというのが、世間の常識というようなことではないでしょうか。

 けれども、神殿からの水の流れる川の岸辺には、多くの木が生い茂っています(7節)。また、川の水がアラバの「汚れた海」に入って行くと、その海は清まり(8節)、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなると言います(9節)。それゆえ、漁師たちが死海の岸部に立ち、「エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする」と記されています(10節)。

 「エン・ゲディ」(「小山羊の泉」の意)は、死海の西岸で南北のほぼ中央に位置するオアシスです。「エン・エグライム」(「2頭の小牛の泉」の意)の位置は不明ですが、文脈から、ヨルダン川河口付近にある泉のことと推測されます。魚の住めなかった死の海が、沢山の漁師たちの生計が立つほどの漁が出来る豊かな命の海となったという表現です。

 「この水が流れるところはきれいになり、すべてのものが生き返る」(9節)というので、新共同訳聖書は、この段落に「命の水」という小見出しをつけています。神殿の下から流れ出した川の流れが、主なる神の御業を表していると記しましたが、命の水の流れによってすべてのものが清められ、すべてのものが生き返るということが、聖なる神の愛の御心、愛の御業なのです。

 主なる神の働きが神殿から起こるというのは、イスラエルの神、主の栄光が東方から到来して、東に向いている門から神殿の中に入り、そこを主の栄光で満たしたからでしょう(43章2節以下、4,5節)。神殿があったから、主の御業が始められたのではなく、まさに主がおられればこそのことだということです。

 エゼキエルがこれらの幻をケバル川河畔の捕囚の民に語り告げるのは、彼らがそこで神を中心とする生活を始めるためであり、それによって主なる神が共におられることを知るためでしょう。そして、預言されているとおり捕囚から解放されてエルサレムへの帰還が許されたとき、主に「宝」(7章22節)と呼ばれる、「祭司の王国、聖なる民」(出エジプト記19章5,6節) となるためです。

 モノは豊かに持っているけれども心に平安なく、恐れや不安に押し潰されそうになっている私たち、へこまされ、思い通りにならず、腐って死にそうになっている私たちが、神の愛の御業に与って、生きる者とされるのです。神が触れてくだされば、神の御言葉を頂けば、主の御霊が私たちの内に注がれれば、そこに神の御業が起こされるのです。

 主イエスは、復活であり、命であられます(ヨハネ11章25節)。主イエスのお与えになる水を飲む者は決して渇かず、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出ます(同4章14節)。命とは、交わりのことだと示されています。

 主がくださるのは豊かな命です(同10章10節)。主との交わり、家族、隣人との交わりが豊かになるのです。持ち物や財産などによってではなく、主なる神によって豊かな交わりに生かされるからです。

 命の主を信じてその幹につながり、内側から清められ、豊かな実を結ぶその枝とならせて頂きましょう。

 主よ、清い命の流れ、御言葉の水、命の水を与えてください。私たちの心を聖霊で満たしてください。豊かな清い流れの中で自由に泳がせてください。主との交わりをとおして清められ、その愛の恵みにより、隣人との交わりがますます豊かになりますように。 アーメン