「君主は外から門の牢を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居のところで礼拝した後、出て行く。」 エゼキエル書46章2節

 45章18節以下の、新年の宮清めの儀式(18~20節)、過越祭(21~24節)、7月の仮庵祭(25節)の規定に続き、46章には、安息日の献げ物(4,5節)、新月の日の献げ物(6,7節)、巡礼の祭りと定められた祝日の献げ物(11節)、随意の献げ物(12節)などが定められています。

 最後に「あなたは、朝ごとに無傷の一歳の小羊一匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、主にささげねばならない。朝ごとに、それをささげねばならない。あなたは、朝ごとにそれに添えて穀物の献げ物をささげねばならない」(13,14節)と定めています。このような毎日の献げ物については、出エジプト記29章38節以下などにもその規定があります。

 そして、冒頭の言葉(2節)のとおり、「君主は外から門の牢を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居のところで礼拝した後、出て行く」と記されてあり、君主の務めとして、内庭の祭壇において行われるいけにえの奉献に立ち会うことが定められています。

 ですから、君主は、一般の人々の参加が求められている安息日と新月の日、国の定められた祝日(過越祭、五旬祭、仮庵祭など)のほか、毎朝行われる礼拝にも、「あなた」と呼びかけられて、参加が要請されていることになります。君主が国民の代表であるということは、イスラエルの民は、その礼拝に君主の出席をもって共に参加しているわけです。

 現実には、民は日々の労働に勤しみ、各々の務めに励んでいるのですが、国民の日々の生活、労働が、神殿でなされる朝ごとの礼拝によって、守り祝されているというわけです。

 毎日礼拝がなされ、週に一度、民が一堂に集う礼拝が行われる。そして、国家的な救済の出来事を祝う特別な祭りが行われて、国を挙げて神への感謝をささげます。このような礼拝のリズムを通して、イスラエルの民は主なる神の宝として健全な信仰生活を送ることができるのです。 

 私たちにとって、現在、神の御前に贖いの供え物としていけにえを献げるということはなくなりました。それは、贖いの代価をすべて、神の御子、主イエスが十字架の死をもって支払ってくださったからです。そのことに感謝して、イースター、クリスマス、ペンテコステを祝います。毎週の礼拝を守ります。そして、朝ごとに主の御前に進み、その御言葉に耳を傾け、静かに主に祈ります。

 このように主を仰ぐ生活をすることは、どんなに大切でしょうか。そのために払う犠牲は、決して小さいとは申しません。ときには戦いです。苦しみです。しかし、主が支払ってくださった尊い犠牲のゆえに、それを行うことが出来ることは、大変感謝なことです。

 パウロが、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ書1章24節)と語っています。

 ここで、「キリストの苦しみの欠けたところ」というのは、主イエスの苦しみには「欠けたところ」、不足している部分があるというのではありません。キリストが罪の呪いをすべて引き受けてくださったからといって、私たちが苦しむ必要がなくなったというわけではない、キリストに委ねられた使命を果たしていくためには、自分も負わなければならない苦難があるということです。

 けれども、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章17節)。

 主の恵みに感謝し、朝ごとに神の御言葉を聴き、示された御言葉に従って歩ませていただきましょう。それによって他とは比べることの出来ない、信仰による栄光の世界を仰がせて頂きましょう。

 主よ、絶えず弱い私たちを助け、励ましてくださり、有難うございます。感謝をもって毎週の礼拝、祈り会を守り、朝ごとに主の御前で御言葉に耳を傾け、祈りをささげることができるのを喜びとします。そして、主の恵みの招きに、信仰をもって応答することが出来ますように。 アーメン