「この門は閉じられたままにしておく。誰もここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである。それゆえ、閉じられたままにしておく。」 エゼキエル書44章2節

 エゼキエルが祭壇の前から神殿の東門のところに連れ戻されると、神の栄光が入ってきたその門が閉ざされていました(1節)。そして、冒頭の言葉(2節)のとおり、「この門は閉じられたままにしておく。開いてはならない。だれもここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである」という主の御言葉を聴きました。

 東門に封印をして出入りを禁ずるというこの言葉から、二つのことが示されます。第一に、主のほかにこの神殿を住まいとするものがあってはならない、後から他の神々を持ち込むことを許さないということです。

 かつてイスラエルの人々は、異教の神々を祀って主の神殿を汚しました(8章)。神殿に仕える祭司たちが、「主の聖所を背にし、顔を東に向けていた。彼らは東に向かって太陽を拝んでいる」(8章16節)という報告もあります。それゆえ、主なる神は神殿を離れられました(10,11章)。そのようなことは、二度とあってはならないということです。

 神殿はただ主なる神のみがお住まいになるところであり、主のみが礼拝されるべき、最も神聖な場所なのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない」、「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」という十戒の規定をあらためて思い出させられることです(出エジプト記20章3節以下)。

 第二に、主は二度と神殿を離れられることはない、決してここから出て行かれることはないというしるしでしょう。かつてエゼキエルは、上に述べたとおり、主の栄光が東の門から去るという幻を見ました(10,11章)。

 40章以下に新しい神殿の幻を見せられ、43章7節で「ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」と語っておられました。

 そして、一度離れ去った主の栄光が、再び入って来たその門を閉じられたままにするということは、何があっても、主の栄光は二度とこの神殿を去らない、常に主がご自分の選ばれた民と共におられるという決意をなさってくださったということです。門を閉じられて、主なる神ご自身が、自らの退路を断たれたわけです。

 今日、主イエスを神として信じ受け入れた者たちは、神の子とされ、永遠の命を受け、そして、神から頂いた聖霊が宿ってくださる神殿とされました。だから、自分の体で神の栄光を現しなさいと教えられています(第一コリント書6章19,20節)。人間が自分で神の栄光を作ることなど、出来はしません。聖霊が私たちのうちに宿っておられるからこそ、主ご自身の栄光が現されるわけです。

 主なる神が共におられ、私たちの内におられるということは、私たちが常に覚えておかなければならない重要な事柄です。聖霊なる神を悲しませ、その存在を消してしまいたくなるような生活をしていては、神の栄光を表すことは出来ないからです(イザヤ書63章10節、エフェソ書4章30節など)。

 神は、「わたしは、決してあなたを離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ書13章5節)と言われます(申命記31章6,8節も参照)。主イエスも、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ福音書14章18節)と言われました。

 そもそも主イエスは、「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ福音書1章23節、イザヤ書7章14節)と言われるお方です。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味のヘブライ語です。

 ヨハネ福音書14章16,17節には「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と記されています。

 このように、三位一体の神が、いつも私たちと共にいてくださると約束しておられるのです。その交わりの豊かさを想像することが出来るでしょうか。主はその恵みを私たちに教え、実際に味わわせてくださろうとしているのです。

 絶えず主の御顔を拝し、日々主の御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きを祈りつつ、感謝と喜びをもって主に仕えましょう。

 主よ、あなたの憐れみに支えられて、私たちの体を生けるいけにえとして献げます。御言葉と御霊により私たちを清め、あなたに喜ばれるものとならせてください。心の一新により、何が神の御心であるか、何がよいことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえることが出来ますように。 アーメン