「七日の間、彼らは祭壇を贖い、清めて、奉献しなければならない。」 エゼキエル書43章26節

 エゼキエルは、新しく建てられる神殿に東方から主なる神の栄光が到来し(2節)、東を向いている門から神殿の中に入り(4節)、そして、神殿を主の栄光が満たしている(5節)という幻を見ました。かつて、神殿に主の栄光が満ちたのは、エルサレムに神殿が完成し、至聖所に主の契約の箱を安置したときです(列王以上8章10節)。

 そして、「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」(7節)と言われる主なる神の御声を聴きました。

 エゼキエルは以前、主の栄光がケルビムに乗って、エルサレム神殿を離れるという幻を見ていました(10,11章参照)。イスラエルの背きの罪により、主がエルサレムを裁くため、神殿を離れられたのです。私たちの希望は、神殿やエルサレムの都という場所にあるのではなく、主なる神のご臨在、主が共にいてくださるというところにあるのです。

 「二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない」(7節)という言葉に、かつてのイスラエルの民の、神ならぬものを信仰する偶像礼拝、あるいは、真の神よりもエジプトの力を頼りとしたという背きの罪が示されています。そのために、エルサレムは陥落、神殿は破壊され、町が火で焼かれてしまいました。

 エルサレムを離れた主の栄光が、再び神殿に到来し、その中に満ちる様を見たということは、主なる神がもう一度イスラエルの都として、エルサレムを選ばれたということであり、そこに建てられた建物を、主を礼拝する神殿とされたということです。

 だから、「わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」(7節)と言われて、イスラエルの民のエルサレム帰還の夢が適うことを示されたわけです。それは、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民にとって、どんなに希望と励ましを与える幻でしょうか。

 ただし、この幻が実現するには、一つの条件が示されます。9節に「今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む」と言われています。それは、背きの罪を悔い改め、再び偶像礼拝やその他の忌まわしい行為で主の神殿を汚さないようにせよということです。

 神は、エゼキエルに祭壇の寸法を示されました(13節以下)。祭壇は、拝殿の前に置かれています。それは、罪深い人間がそのままで、聖なる神に近づくことは出来ないこと、贖いの献げ物によって清められた後、主なる神を礼拝するために、拝殿に入ることが許されるということです。

 そうして主は、冒頭の言葉(26節)のとおり、その祭壇を清めるため、7日の間、毎日、贖罪の献げ物の雄山羊と、若い雄牛と無傷の雄羊をいけにえとして献げるように命じられました(18節以下)。私たちの罪を贖ういけにえをささげる祭壇を贖い清めるということは、主に近づくために、いかに徹底的に自らを清めなければならないかということでしょう。

 今あらためて、主の愛と憐れみに感謝致します。主なる神は、ご自分に背いて罪を犯す私たちのために、主ご自身が贖いの献げ物をささげてくださいました。その献げ物とは、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」(イザヤ6章3節)なる神の独り子イエス・キリストで、その祭壇はキリストの架けられた十字架です。

 そのゆえに、私たちは自分で献げ物をする必要がなくなったのです。私たちは、イエス・キリストのささげられた十字架という祭壇を通って、子どもも大人も、女も男も、ユダヤ人も異邦人もみな、はばかることなく神に近づくことが出来るようになりました(ヘブライ書10章19節以下、22節)。いつでも親しく神と交わることが出来るようになったのです。

 この恵みを無駄にすることがないように、畏れの心をもって絶えず主の御前に進み、感謝と賛美のいけにえをおささげしましょう(同13章15節)。日毎に新しく、主の御言葉を聴かせて頂きましょう。絶えず、聖霊に満たされ続けましょう(エフェソ書5章18節)。

 主よ、どうか私たちの心においでください。私たちの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御救いの喜びを絶えず私たちに味わわせ、自由の霊によって支えてください。主のご愛で満たしてください。そして主よ、この口を開いてください。あなたへの賛美を歌います。 アーメン