「その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」 エゼキエル書29章21節

 29章から32章まで、エジプトに対する預言が、それが語られた日付つきで記されています。最も早いのが29章1節の「第10年の10月12日」すなわち紀元前587年1月ごろ、そして最も遅いのが29章17節の「第27年の1月1日」すなわち紀元前571年4月ごろのことです。

 ここに、約16年の開きがありますが、預言者は度々、エジプトに対する神の裁きを予告しているわけです。神の預言は、文字通りに実行されるということよりも、その預言を聞いた人々が今までの生き方を反省し、神の導きに従って方向転換することを求めて、その悔い改めのために語られるという側面があります。

 最も遅く語られた日付になっている17節以下の箇所に、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスと戦って、費やした労苦に見合う報酬を得なかったから、彼にエジプトを報酬として与え、戦利品をぶんどり、略奪をほしいままにするなどと記されています(18~20節)。

 そして驚くべきことには、彼らがエジプトを報酬として与えられるのは、「彼らが、わたしに代わって、このことをしたからである」(20節)と、主なる神が語っておられるのです。この背景には、主がティルスの裁きを預言され(26~28章)、にもかかわらず驕り高ぶって悔い改めようともしなかったティルスを、バビロンが攻撃したということがあります。

 ティルスは本土と沖合い数百メートルにある島からなり、南北に走る隊商路と、外国との交易に適したよい港を有して、富み栄えていました。バビロンは13年に亘って攻撃を加えましたが、沖合いの島で防備を固めたティルスを陥落させることが出来ませんでした。

 そのため、取るべきものは殆どなく、兵士に報酬を与えられず、骨折り損のくたびれ儲けになってしまったというわけです。そして、ティルス攻撃をさせたのが主なる神であり、バビロンは主のためにそれを行ったので、ティルスの代わりにエジプトを報酬としてバビロンに与えると言われているということでしょう。

 エジプトが裁かれるのは、彼らが思い上がり、「ナイル川はわたしのもの、わたしが自分のために造ったものだ」(3節)と言っているからです。ナイル川はエジプトに豊かな富をもたらし、優れた文明を育みました。言うまでもなく、エジプトがナイル川を造ったのではなく、ナイル川がエジプトを造ったのです。

 ナイル川を主がエジプトの民に授けられた豊かな賜物、タラントンであると考えてみれば(マタイ福音書25章14節以下)、この物語は私たちに対する警告として聴くべきです。

 主がご自分のご計画を進めるためには、異教の民バビロンをさえ用いることが出来ます。つまり、主なる神の支配は、世界の全地に及んでいるということです。そして、それぞれに悔い改めが勧告され、聴き従うことが求められます。

 今、ティルスを打ち、そしてまたエジプトを打つために主の道具として用いられているバビロンも、主を畏れ、謙って主に聴き従うものとならなければ、今度はバビロンが裁かれることになります。主に用いられていることで思い上がらず、栄光を主に帰しつつ働かせていただきましょう。

 エジプトが裁かれる日、冒頭の言葉(21節)のとおり、「わたしはイスラエルのために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる」と主なる神は言われます。「角」(ケレン)は、力や権威を象徴的に表現するものです。

 「わたしは逆らう者の角をことごとく折り、従う者の角を高く上げる」(詩編75編11節という言葉もあります。ここでは、バビロン捕囚によって断ち切られたダビデ王朝を再び回復させ、新たな王が立てられるという表現として語られています。

 詩編132編17節で、「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える」と言われているとおりです。その意味でこれは、エレミヤ書23章5節などと同様、エゼキエルによるメシヤ誕生の預言が、ここに語られているものといってよいでしょう。

 「その日」がいつのことなのか明示されてはいませんが、エゼキエルに主の言葉が臨んでからおよそ11年後、バビロンがエジプトを攻略して6年ほど経過した561年、ヨヤキンがバビロンの王に情けをかけられて出獄し、王と共に食事をする特権に与りました(列王記下25章27節以下)。

 そして、ペルシア王キュロスによってバビロンから解放されたとき、ヨヤキンの孫ゼルバベル(「バビロンの種」の意)が総督として民を率いてエルサレムに帰還しました(エズラ記2章)。そして、エルサレムに第二神殿を再建したのです(同3章)。しかしながら、その後、ダビデの子孫がイスラエルの王となることはありませんでした。

 けれども、エゼキエルの預言した「その日」が実現する日が来ます。それは、ヨヤキン(エコンヤ)から数えて十四代目、メシアと呼ばれるイエスの誕生によって成就したのです(マタイ福音書1章12節以下、16,17節)。

 主の告げられた言葉は必ず実現します(ルカ1章20,45節)。主の御前に謙り、御言葉に耳を傾けましょう。御言葉に従いましょう。 

 主よ、計り知れない深い愛と憐れみにより、独り子キリストをこの世に遣わし、贖いの供え物として十字架につけ、私たちの救いの道をお開きくださって、心から感謝致します。また、御霊の賜物を授け、主の御業のために用いてくださることを感謝致します。常に聖霊に満たしてください。御業のために用いてください。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン