「海沿いの国々の住民は皆、お前のことで驚き、王たちは恐れおののき、顔はゆがんでいた。」 エゼキエル書27章35節

 前章に続き、27章にもティルスに対する預言が記されています。

 3節から25節まで、ティルスの繁栄ぶりが、詩の形で描かれています。それは、一艘の大変美しい船でいかなる交易をしたのかということを歌う詩です。

 ティルスは、「わたしの姿は美しさの極み」(3節)と自ら歌うほど、富み栄えていました。そして、彼らが追い求めた船の強さと美しさ(5~7節)、船員の技術の高さ(8,9節)、他国の人々が憧れる戦士の強さ、美しさ(10節)が歌われます。

 その詩の中に、詩を分断する形で散文(11~24節)がはめ込まれています。これは、詩の形で描かれたティルスの交易品の豊かさ、交易範囲の広さなどを具体的に説明するものです。その交易品の豊富さ、質の良さから、ティルスがその時、どれほど繁栄していたのかということを窺い知ることが出来ます。

 その豊かさ、美しさに引き寄せられて、世界中の国々がティルスと貿易を行います。それゆえ、賞賛の声はますます高まりました。その意味で、「美しさの極み」を手に入れようとする努力は、決して悪いものではないでしょう。船の強さや美しさ、操船技術の高さ、そして良質高級な商品をもっての交易が、他者に責められるものであるはずがありません。

 けれども、「優秀さ」という力や名声を一旦手に入れると、往々にして努力が驕りに、精進が傲慢に変わることがあります。「わたしの姿は美しさの極み」と自ら言うのは、その表われということになるのではないでしょうか。だから、エルサレムの裁き=滅びを見て、嘲り笑いもするわけです(26章2節)。

 ところが、事態が一変します。世界中のよい商品を満載したティルスの船が大海原に漕ぎ出したとき、東風が船を打ち砕き(26節)、すべてのものが海の藻屑となってしまいました(27節)。

 最強の船は、少々の嵐にはびくともしなかったでしょう。最高の操船技術を持った船員たちは、嵐を乗り切る術を知っていたでしょう。しかし、どんなに最高の材料と技術で作られた優秀な船でも、船員の豊富な経験や最高の技術をもってしても、到底及び得ない大自然の力があるのです。

 彼らがこの危険を回避出来なかったのは、その心に驕りがあったからです。それゆえ、想定を超える危機に対する備えを怠り、最高の材料と技術で造られた優秀な船、高級で貴重な積み荷、そして経験豊富で優秀な船員たちを、東風によって一度にすべて失う結果になってしまいました。

 冒頭の言葉(35節)のごとく、海沿いの国々の住民は最強の船が沈んだこと、最高の技術が東風に打ち砕かれたことにあらためて驚き、王たちは恐れました(28節以下参照)。彼らは、人の手に負えないものがあることを具体的に学びました。これは、その力の前に人が人生航路を進んでいくためには、知識や経験、能力だけでなく、まことの神に対する信仰が必要だと教えているのです。

 エルサレムの滅亡を嘲り笑って滅びを招いたティルスは、本当は海沿いの諸国の住民と王たちのごとく、主の選びの民の滅亡を驚き、恐れなければならなかったのです。そこから、まことの神への信仰を新たにすべきだったのです。

 そして、これは私たちも同様です。人々の苦難を知るとき、さらに謙虚になって苦しみから救ってくださる主に向かい、共に主の助けを求めて叫ぶ者とならせていただく必要があります。

 私たちの人生にも、様々な嵐が襲って来ます。中には、自分たちの力ではどうにも対処出来ないというようなことも起こります。そのとき私たちには、助けを求める私たちの叫びを聞き、応えてくださるお方が、私たちの傍に、私たちと共にいてくださるのです。

 舟に乗り込まれた主イエスと弟子たちが、湖の真ん中で突然の嵐に遭いました(マルコ福音書4章35節以下、37節)。弟子たちは、艫の方で眠っておられた主イエスを叩き起こし、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(同38節)と訴えました。起き上がられた主イエスは、風を叱り、湖に命じて「黙れ、静まれ」と言われ、すっかり凪にされました(同39節)。

 私たちの主こそ、「仰せによって嵐を起こし、波を高くされ」るお方であり(詩編107編25節)、そして、「嵐に働きかけて沈黙させられ」、波をおさめられるお方(同29節)なのです。

 「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」(同31節)。ハレルヤ!アーメン!

 主なる神よ、世界各地にある紛争、政情不安を鎮めてください。共に主の十字架を仰がせてください。まことの主を畏れることを学ばせてください。全世界に主の平和と喜びがありますように。神の子らが平和の御業のために用いられますように。 アーメン