「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。」 エゼキエル書24章16,17節

 1節初めに「第九年の十月十日」と記されています。これは、ヨヤキンがバビロンの捕囚とされて九年目ということであり、それはまた、ユダの王ゼデキヤの治世を示しています。20章1節に「第七年の五月」とありました。その時から2年4ヶ月余りが経過したことになります。

 その10月10日、バビロン軍がエルサレムに到着し、都を包囲して陣を敷きました(2節、列王記下25章1節)。いよいよ、エルサレム攻撃が始まります。第9年の10月10日とは、紀元前588年の1月頃のことです。

 3~5節は、鍋で美味しい羊のシチューを作る様子が描かれています。それに対して6節以下、「流血の都」(6節、22章2節)と言われるエルサレムを「災いだ」と言い、 都に流血があることを、「錆のついた鍋」と言い表します。錆がシチューを台無しにしてしまうため、錆を除こうとしても適わず(12節)、鍋も肉も焼けて使い物にならなくなります。

 鍋がエルサレム、錆が背きの罪、肉や骨はエルサレムの民、火はバビロン軍と考えれば、分かり易いでしょうか。 背きの罪によってエルサレムの民は主に裁かれ、バビロン軍の攻撃を受けて多くの民が剣で殺され、、神殿は破壊され、町は焼かれ、残りの民は捕囚とされました。

 15節以下、エゼキエルの妻の死について、主の御言葉がエゼキエルに臨みました。冒頭の言葉(16節)で「人の子よ、あなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る」と主が言われています。「あなたの目の喜び」とは、エゼキエルの妻のことを指しており、その表現から、夫婦の仲むつまじい様子を窺わせます。しかし、その妻がその日のうちに取り去られるというのです。

 それだけでとんでもないことですが、主なる神はさらに厳しいことを要求されます。それは、妻の死を「あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな」(16,17節)と言われるのです。

 人は、その愛する者を失ったとき喪に服し、嘆き苦しみ泣く時を過ごして、また、共に嘆き泣く者の涙を通して、心に慰めを得るものでしょう。ところが、エゼキエルはここで、主なる神からそれを禁じられてしまいました。彼がそれをどのように感じたのか、その思いなどは全く記されていません。

 レビ記21章10,11節に「同僚の祭司たちの上位に立ち、聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任じられ、そのための祭服を着る身となった者は、髪をほどいたり、衣服を裂いたりしてはならない。自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない」という規定があります。この規定が、祭司の家の出であるエゼキエルに適用されたようなかたちです。

 主が語られた日の夕方、主の御言葉が現実となり、エゼキエルは告げられたとおりに行動します(18節)。当然、エゼキエルの周りにいる捕囚の民は、なぜエゼキエルは妻が死んでも喪に服さないのかという疑問を抱き、それにはどんな意味があるのかと、エゼキエルに質問します(19節)。

 そこで、主がイスラエルの家の目の喜び、心の慕うものであるエルサレムの聖所を汚されること、都に残されていた者たちは、剣によって滅ぼされること、しかし、そのために嘆いてはならない、泣いてはならないと主なる神が言われているということを、彼らに語るのです(20~23節参照)。

 真の神である主に背いて異教の神々を祀っているようなエルサレムの神殿(11章参照)が汚され、偶像を慕う民が剣で滅ぼされるのは当然で、そのために泣くな、悲しむ必要はないということでしょう。

 しかしながら、それはイスラエルの象徴が失われることであり、そしてそのことは、イスラエルという国が完全に滅んでしまうということ、主なる神を信じ、礼拝する民が失われてしまうことを意味するのです。それは、悲しみ泣くというよりも、絶望で一切の力を失ってしまうような出来事です。

 そうして主なる神は、そのような出来事を通して、もう一度、主が神であることを捕囚の民は知るようになるというのです(24節)。これは、そのような出来事を通らなければ、不信仰のために、イスラエルの民が真の神である主を思い出すことが出来なくなっしまっているということでしょう。

 これらのことは、放蕩息子が持ち金をすべて無駄遣いしてしまった後(ルカ福音書15章11節以下、13節)、ひどい飢饉で食べるに困り(同14節)、豚の世話をしながら(同15節)、豚の食べるイナゴ豆で飢えをしのごうとしたときに(同16節)、我に返った(同17節)という物語を思わせます。

 「我に返る」とは、「自分自身に入る」(エイス・ヘアウトン・エルソーン)という言葉遣いで、本来の自分に戻るという表現でしょう。口語訳は「本心に立ちかえって」、岩波訳は「己に返って」と訳していました。つまり、苦難を通して、本来あるべき姿、自分の戻るべきところを示されたということです。

 ですから、捕囚の民がエルサレムの聖所が汚されたゆえではなく、都が焼き滅ぼされたゆえでもなく、「お前たちは自分の罪のゆえに衰え、互いに嘆くようになる」(23節)というとおり、自らの不信仰を嘆き、泣くとき、主なる神がそれを顧みてくださるのです。

 それにしても、預言者というものはなんと厳しい使命を担っていることでしょうか。自分の愛する妻の死をすら預言の道具とされ、自らの感情を表現することを禁じられ、そうして神の御言葉に完全に従うことが求められるのです。エゼキエルはその通りにしました。そして、彼の預言したとおりのことが、エルサレムの上になされました。

 勿論、自分が告げた預言が、そのとおり成就したということを、素直に喜ぶことが出来ません。それは、悲しみに悲しみを重ねることだっただからです。目の喜びを失う悲しみを心に持ちながら、主に従う姿を民に見せることで、捕囚の民がこれから、目に見えるものにではなく、見えない神に従うことを学ばせるのです。

 エゼキエルに対して御言葉に聴き従うことを求められた主なる神は、私たち人類の罪のために独り子イエスを犠牲にされたお方です。エゼキエルの悲しみがお分かりにならないお方ではありません。むしろ、分かり過ぎるくらいお分かりになっておられるお方です。

 どのようにしてかは分かりませんが、御言葉に忠実に従う預言者エゼキエルのために、主がその心に直接触れて、天来の慰めをお与えになったことでしょう。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ福音書5章4節)と言われるとおりです。

 悲しみを喜びに、呻きを賛美に変えてくださる主を信頼し、日々御顔を仰いで、その御言葉に耳を傾けましょう。 

 主よ、私たちは主の僕です。どんなときにも主に従うことが出来ますように。絶えず主を仰がせてください。いつも御声を聞かせてください。そのために、目を開き、耳を開き、何より心を清めてください。希望の源である主が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてください。 アーメン