「主なる神はこう言われる。彼女のために会衆を招集せよ。彼女らを恐怖と略奪の的とせよ。会衆は彼女らを石で撃ち殺し、剣で切り倒す。また、彼女らの息子、娘たちを殺し、家を火で焼く。」 エゼキエル書23章46,47節

 23章では、オホラとオホリバという二人の女性が、姦淫の罪で裁かれるというたとえが用いられています(2節以下)。その中で、オホラはサマリア、オホリバはエルサレムのことであると説明されます(4節)。サマリアは北イスラエル王国の首都であり、エルサレムは南ユダ王国の首都です。

 姉のオホラはアッシリアと姦淫を行い、愛人である戦士アッシリア人に欲情を抱き、その偶像によって身を汚したので、主はオホラをアッシリアの手に渡して滅ぼされたと言われます(5節以下、9,10節)。

 具体的に、北イスラエルとアッシリアとが手を結んだとか、それを望んだということはなかったろうと思います。むしろ、アラム(シリア)と結んでアッシリアと対抗しようとしていました。

 列王記下16章5節で「アラムの王レツィンとイスラエルの王、レマルヤの子ペカがエルサレムを攻めようとして上って来た」というのは、アッシリアに対抗するためにアラムと北イスラエルが連合し、南ユダにも連合に参加するよう招いたけれども、誘いに乗らなかったので、アッシリアと戦う前に南ユダを負かしておこうとしてのことです。

 攻め上って来たアラム・北イスラエル連合軍に対して、南ユダの王アハズはアッシリアに使いして、アラムとイスラエルの連合軍から守ってくれるよう要請し、アッシリアに金品を贈ります(同7節以下)。敵の敵と手を結んで友達の関係になったというかたちです。

 アッシリアはアハズの要請に応えてアラムに攻め込み、首都ダマスコを占領し(同9節以下)、それから9年後、北イスラエルに攻め上り、3年後に首都サマリアを占領。ホシェア王を始め、イスラエル人は捕らえられてアッシリアに連れて行かれました(同17章1節以下、6節)。

 アッシリアと対抗しようとしていたことを「戦士アッシリア人に欲情を抱いた」(5節)と言われているのでしょうか。むしろ、アッシリアに欲情を抱き、彼らの偶像を首都エルサレムに持ち込んだのは、ユダの王アハズでした(列王記下16章10節以下)。

 姉オホラが主に裁かれてアッシリアに滅ぼされたのを見たオホリバが、姉よりもひどい姦淫を行ったと11節に告げられています。これが、上記の通りアッシリアの神をエルサレムに祀ったということです。それゆえ、姉の杯を飲まねばならない(31,32節)、つまり、彼らが姦淫を行った結果、バビロンの手によって裁かれると言われているのです(17節、28節以下)。

 紀元前721年、背きの罪のために、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされました(列王記下17章)。アッシリアは南ユダにも攻め寄せましたが、イザヤの執り成しの祈りにより、国を保持することが出来ました(同18,19章)。

 もしかすると、そうしたことのために、南ユダは北イスラエルに対して優越感を持っていたのかも知れません。しかし、主はその誇りを打ち砕かれました。南の背きは北よりも醜悪だと言われるのです。それは、彼らがある時はアッシリア、ある時はバビロン、そしてまたある時はエジプトと姦淫したからです。

 アッシリアやバビロンとエジプトは、イスラエルを南北から挟んでいる超大国です。それぞれの国が帝国の領土を拡大しようとするとき、両大国の間に挟まれたイスラエルをはじめパレスティナ諸国が戦場になりました。国を守るため、イスラエルは絶えずどの国と同盟すべきかという判断を迫られました。

 アッシリアがエルサレムに迫ったとき、貢ぎ物を贈って国を守ろうとしました(列王記下18章14~16節)。後に、バビロンと結び合おうとします(同20章17節以下)。バビロンがアッシリアを破り、さらにパレスティナ、エジプトにまで迫ろうとしたとき、今度はエジプトと同盟して戦おうとしたわけです(同24章1節以下、20節)。

 これは、国力において比較にならない小国の懸命の生き残り策でした。それによって南ユダの平和が保たれるならば、外交政策の成功ということになります。しかるに主なる神は、これらのことを姦淫と呼ばれているのです。

 そもそも、エジプトの奴隷として異教の神々のもとにいた南北イスラエルの民をご自分の民として選び、約束の地をお与えになりました。「彼女たちはわたしのものとなり、息子、娘たちを産んだ」(4節)と記されています。だから、イスラエルは自分たちの主人である神に頼るべきだったのであって、強国の力や彼らが拝む神々を当てにしてはならなかったのです。

 主なる神はこの姦淫の罪を裁かれ、「わたしは、お前の心が離れた愛人どもを呼び起こし、お前に立ち向かわせ、彼らを周囲からお前のもとに来させる。それはバビロンの人々とカルデアのすべての人々、ペコド、ショア、コアおよびアッシリアのすべての人々である」(22,23節)と語られました。

 また、冒頭の言葉(46,47節)の通り「彼女のために会衆を招集せよ。彼女らを恐怖と略奪の的とせよ。会衆は彼女らを石で撃ち殺し、剣で切り倒す」と言われます。姦淫の罪を犯した者が会衆によって石で撃ち殺されるがごとく(申命記22章22節以下)、主なる神に背き、異教の偶像を拝む者たちをバビロン軍が剣で切り倒すのです。  

 正直に言えば、私たちが大きな問題に直面するとき、神様より問題の方が大きく見えます。神が解決してくださるからといって、落ち着いていることが出来なくなります(イザヤ書30章15,16節参照)。むしろ、誰に助力を頼もうか、どうやって切り抜けようかとあれこれ思い悩み、眠れぬ夜を過ごします。

 しかし、もう一度、「彼女はわたしのものとなった」(4節)と言われる主の御言葉を心に留めたいと思います。主はエジプトにおけるイスラエルの苦難を見過ごしにはされませんでした。彼女らの叫びに耳を傾けられたのです。

 主の語られる御言葉に耳を傾けましょう。へりくだって聖霊の導きに従いましょう。

 主よ、どうか弱い私を憐れんでください。私たちの歩むべき道を示してください。試練に耐える力と共に、乗り越える道をも備えてくださる主を信じます。神よ、天の上に高くいまし、栄光を全地に輝かせてください。 アーメン