「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。」 エゼキエル書22章30節

 主なる神が、イスラエルの都エルサレムを「流血の都」(2節)と呼ばれ、裁きを下されます。「流血」とは、殺人によるものでしょう。それも、6節の「君候たちは、お前の中でおのおの力を振るい、血を流している」という言葉から、党派的な権力争いのことをいうのだろうと思われます。

 また、異教の神々にささげられる生け贄の血も含まれるのかも知れません(3,4節)。党派的権力争いということでは、親エジプト派、親バビロニア派といった存在が考えられ、更にそれぞれの神々を祀っていたのではないでしょうか。

 いずれの立場の者たちも、敬うべき両親を軽んじ、他国人、孤児や寡婦など社会的弱者を虐げ(7節)、主なる神の聖なるものをさげすみ、安息日を汚しました(8節)。そのようにして(9節以下も)、幾重にも聖なる都が汚されてしまったというイメージです。

 主の裁きについて、17節以下では金属の精錬がたとえとして語られます。鉱石から純粋な金属を取り出すには、高温で鉱石を溶かし、そこから触媒などを用いて不純物(金滓など)を取り除きます。

 これと同じようなたとえをイザヤが1章21節以下で用いており、そこでは、銀が金滓となってしまっているから(同22節)、灰汁で滓を溶かし、不純なものを取り去ってもとのようにする(同25節)、そのような神の裁きによってエルサレムは正義の都、忠実な町となり(同26節)、そして、背く者と罪人、主を捨てる者が断たれる(同28節)と語られていました。

 エゼキエルも、金滓を溶かして不純物を取り除くというのですが、預言者が見ているのは、不純物が取り除かれて純粋な金属が取り出されるところではありません。イスラエルは本来、銀や銅、錫、鉄、鉛などといった純粋な金属であったはずなのに、今やすべて金滓となってしまっています(18節)。

 どこにも純粋な金属が見当たらない、完全に金滓になってしまっているので、金属が炉で溶かされるように、エルサレムという炉の真ん中に集め(19節)、怒りの火を吹き付けて溶かすという情景を見ているのです。21章でネゲブ(南)の森を火で焼くというのは(同3節)、イスラエルを剣で滅ぼすということでした(同8節以下)。

 先にも触れたように、イスラエルがいかに汚され、どのような金滓になってしまっているのかということが、3節以下に述べられていました。異教の神を祀ったことに始まり、長幼の序は崩れ、福祉はおろそかにされている。性は乱れ、不正が横行している。もはや自分の力で悪を浄化することも出来ない。信仰の乱れが生活全般の乱れになっているという預言者の主張を、そこに見ることが出来ます。

 そしてこれは、ローマ書1章18節以下でパウロが展開している「人類の罪」の有様です。ということは、私たちにとっても決して他人事ではありません。「正しい者はいない。一人もいない」(同3章10節、詩編14編1,3節)と言われているとおりです。

 しかし、主なる神がエゼキエルにこれを語らせているのは、本当にイスラエルを捨て去ってしまいたいからではないでしょう。むしろ、真に頼るべきお方に依り頼むよう、主に立ち返り、その罪を清めていただくようにという主の恵み、憐れみによる招きではないでしょうか。

 冒頭の言葉(30節)に、「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった」と記されています。

 「石垣の破れ口に立つ者」について、詩編106編23節に「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた」と詠われています。モーセは、荒れ野を行くとき、繰り返し主に背く民のために御前に執り成しをして、その怒りをなだめたので、民が滅ぼされることはなかったと言われているのです(出エジプト記32章11節以下など)。

 つまり、このモーセのような執り成し手、指導者を主は探されたのだけれども、民の指導者として立てられた王や預言者、祭司たちは、主の眼鏡には適わなかったということです。そのため、「わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、怒りの火によって彼らを滅ぼし、彼らの行いの報いをその頭上に返す」(31節)と言われるとおり、結局イスラエルを滅ぼさざるを得なかったというわけです。

 しかしながら、やがて主なる神はご自分の独り子キリスト・イエスを、この破れ口に立つ者としてお遣わしになりました。この主イエスの十字架の贖いの死によって、私たちは罪赦されました。神の子とされました。神は、独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るようにしてくださったのです(ヨハネ福音書3章16節)。

 その恵みを疎かにすることなく、主イエスを愛し、その御言葉に従って歩む者としていただきましょう。そして、多くの人々と共に、主の恵みに与る喜びを分かち合いたいと思います。

 主よ、この国を憐れんでください。キリストの血潮によってあらゆる不義を清め、不純なものを取り去り、正義の都、忠実な町と呼ばれるようにしてください。社会的弱者たちを守る公正と正義に生き、破れ口に立って執り成し祈る指導者を与えてください。すべての者が真に主を畏れ、主の聖なるものを重んじ、主の導きに従う恵みが与えられますように。この地に神の国を来たらせてください。 アーメン