「左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。」 エゼキエル書4章4節

 ケバル川の河畔にいるエゼキエルに、神の言葉が臨みました。それは、煉瓦を一つ取り、そこにエルサレムを刻むこと(1節)、それを包囲して周囲に堡塁を築き、陣営を敷き、破城槌を配備することで(2節)、エルサレムが軍に包囲された様子を描かせます。それは、紀元前588年に起こった2回目のエルサレム包囲のことでしょう。

 エゼキエルは鉄板を用意して、自分とエルサレムの都を刻んだレンガとの間に置き、鉄の壁の外から都に顔を向けます。これは、3章8節の「今やわたしは、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする」というエゼキエル召命の言葉と響き合っています。

 エゼキエルがエルサレムを包囲するバビロン軍の一部を演じるわけですが、このように語ることで、バビロン軍がエルサレムを裁く神の代行だということを示しています。また、鉄の壁によって、エルサレムの都が神の臨在と栄光から切り離されてしまったことを表わしています。

 続いて神は、冒頭の言葉(4節)のとおり、「イスラエルの家の罪を負わねばならない」と言われ、左脇を下にして390日(5節)、右脇を下にして40日(6節)、横たわるようにと言われます。

 イスラエルの家の罪のために390日、ユダの家の罪のために40日と言われていますが、なぜそのような日数になるのか、ここに説明されてはいません。ギリシア語訳旧約聖書(70人訳)は、390日を190日としています。

 イスラエルの家の罪ということで、390日は、ソロモンによるエルサレムの神殿奉献(紀元前960年頃)からバビロンによる神殿破壊(紀元前587年)までの年数を表わしているものでしょう。

 そして、390日と40日を加えた430日は、イスラエルの民がかつてエジプトの奴隷として苦しみを受けた年数であり(出エジプト記12章40節)、それとの関連で、40日は、イスラエルの民が荒れ野を彷徨った年数にもあたります(民数記14章34節)。

 イスラエルの家の罪を背負って430日も横たわるということは、かつてイスラエルの民がエジプトで430年の奴隷生活を送ったように、今イスラエルの民は、バビロンで奴隷生活を送らねばならないこと、そしてそれは、イスラエルの家の罪の故であるということが、このようなかたちで明確に示されているわけです。

 ただ、390日の間、縄がかけられて、「寝返りを打つことができなくなる」(8節)と言われているので、これはどんなに大変なことでしょう。全く身動き出来ないように縛り上げられたならば、それは、想像を超えた苦しみを味わわねばならないでしょう。

 実際、その姿勢のまま1年以上も過ごすのは、不可能なのではないでしょうか。また、一日20シェケル(約230グラム)の食糧と(10節)、水六分の一ヒン(約0.64リットル)で(11節)、一年余を健康的に過ごすことも不可能なことでしょう。

 エゼキエルは、パンを人糞で焼けと命じられたときには(12節)、「わたしは我が身を汚したことがありません」(13節)と、その命令に従うことについて、拒否します。祭司の家に育った者として、『仰せの通りにいたします』ということが出来なかったのです。 それに対して、「牛糞を用いることをわたしは許す」(15節)と主は言われました。それが当時の燃料だったのです。

 あらためて、エゼキエルが身を横たえていたのは、昼間など一定の時間だけ、また、そのような少量の食事は、人々の前に姿を現している際の公務上のもので、それとは別に私的な食事を摂っていただろうと思われます。とはいえ、それでも大きな苦痛を伴うものだったことは明らかです。

 左脇を下にして390日、右脇を下にして40日という期間、来る日も来る日も同じ姿勢を続け、そうしている間は少量の食糧で過ごすエゼキエルは、身をもってイスラエルとユダの家の罪の重さを体験させられたわけですし、それを見た人々は、自分たちが神に犯した罪の大きさ、そして神の裁きの厳しさを思い知らされることになったのではないでしょうか。

 ただ、かつてエジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民は、430年の後、エジプトの軛から解放され、約束の地に入ることが出来ました。とすれば、ここに言われる390日と40日、合わせて430日が経過した後には、第二の出エジプトを経験するということになるようです。

 主は既にエレミヤによって、「バビロンに70年のときが満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(エレミヤ書29章10節)と語っておられました。

 「左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負わねばならない」(4節)、「彼らの罪の年数を、日の数にして、390日と定める」(5節)と言われて、エゼキエルはそれに従順に聞き従うことが求められています。それは、イスラエルが神の御言葉に聞き従えば、バビロンの奴隷生活から解放されることになるという神のメッセージなのです。

 その意味では、従順を学び、解放の恵みに与るための産みの苦しみの期間を、主に信頼し、主に期待して待ち望めということにもなるでしょう。神は、闇に光を灯し、憂いを笑いに変えられるお方です。罪が赦され、すべてが一新されるときが来るのです。憐れみの主を仰ぎましょう。

 主よ、闇が地を覆い、先が全く見えない状況では、私たちは倦み疲れ、躓き倒れてしまいます。けれども、あなたは、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられるお方です。私たちはあなたに望みを置きます。鷲のように翼を張って上ることができるよう、新しい力に与らせてください。聖霊の風に乗せて舞い上がらせてください。御名が崇められますように。 アーメン