「主なる神はこう言われる。聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい。」 エゼキエル書3章27節

 主なる神がエゼキエルに「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい」(1節)と言って、巻物を食べさせます。巻物には、「表にも裏にも文字が記されて」(2章10節)いました。

 通常、巻物を開いた面の裏側に文字が記されていることはありません。両面に記されているということは、エゼキエルに与えられた、民に告げるべき預言の言葉、民に伝えたい神の御言葉が、非常に多いということでしょう。

 また、巻物は食べることが出来るものとも思われませんが、エゼキエルは主が命じられたとおりに口を開き、それを食べました。2章3,4節で捕囚のイスラエルの民を、神に反逆した、恥知らずで強情な人々と言われていわれましたが(同4節)、エゼキエルは神に従う者であるということを示すためのパフォーマンスでしょう。

 エゼキエルが食べると、「それは蜜のように口に甘かった」(3節)と言われます。巻物に記されていたのは、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(2章10節)でした。神に従うのは、苦労を避けて通れるということを意味しません。けれども、苦いと思われる主の言葉を記した巻物が、口に甘かったということは、主に従う者に与えられる恵みがあるということでしょう。

 申命記8章3節に「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と言われます。

 私たちが生きるために、食べ物が必要です。マナを初め、必要なものはすべて、主の口から出るすべての言葉によって民に与えられたのです。主なる神は、ここでエゼキエルに御言葉を記した巻物を食べさせ、それによって主の預言者としての必要な力を得させたということでしょう。

 エゼキエルは、主に遣わされてケバル川河畔のテル・アビブに住む捕囚民のもとに行きます(15節)。「テル・アビブ」とは、「洪水の丘」という意味のアッカド語のヘブライ語音写です(岩波訳脚注参照)。それは、洪水の跡を残す荒れ地だったのではないでしょうか。そのような場所が捕囚民に居住地として提供されたわけです。

 因みに、1948年5月にイスラエル国家樹立が宣言された「テル・アビブ」は、イスラエル西部地中海沿岸の町で、エルサレムに次ぐ人口第二位の都市です。ヘブライ語で「アビブ」は穀物の穂という意味で「春」を表します。イスラエルの正月にあたるニサンの月は、別名アビブの月といい、大麦の収穫の始まりを祝う月です。

 話をもとに戻して、エゼキエルはケバル川河畔のテル・アビブで、七日間を呆然として過ごします(15節)。これは、ヨブの友人が彼の災難を聞いて慰めに来て、あまりの苦しみの激しさに七日間、話しかけることも出来なかったという記事を思い出させます(ヨブ記2章11節以下)。

 御言葉を受け、聖霊の力で引き上げられた(12節)エゼキエルの目に、捕囚民の姿が映ります。彼らに何を語ったらよいのか、何をしたらよいのかという思いになったのかも知れません。それは特に、彼らは主なる神に反逆して頑なになっているので、エゼキエルの言葉を聞こうとはしないと主ご自身が仰っているからです(7節)。

 14節でエゼキエルが「苦々しく、怒りの燃える心をもって出て行った」というのは、捕囚の苦しみを味わっている同胞が、主に心閉ざし、頑なになって御言葉を聞こうとしないということについて、捕囚の苦しみの中にいる同胞への同情と、しかし、彼らに厳しい裁きの言葉を告げなければならない責任など、様々な思いに板挟みになっている様子が窺えます。

 エゼキエルが主に聴き従うのは、彼が特別に従順だったからでしょうか。真剣に主を求める者だったからでしょうか。はっきりとは言い切れませんが、彼も五十歩百歩、特別に他のイスラエル人と特別に違うという存在ではなかったのではないかと思います。

 ただ、特別な主の憐れみによって主の幻を見(1章1節)、聖霊の力を受けました(2章2節)。それによって、苦しみの中から、また、希望を持てず無気力になってうずくまっていたところから、立ち上がることが出来たのです。もしも、エゼキエルと他のイスラエル人とを分けるとすれば、差し出された主の御手、主の憐れみを、彼は確かに受け取ったという点です。 

 七日の後、主の言葉がエゼキエルに臨み(16節)、「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない」(17節)と告げられます。彼は、イスラエルの民に危機が臨むのを警告する見張り人としての責任を、主から与えられました。

 民に臨む危機とは、主が民を裁き、罰を与えるということです(18節)。そのためにエゼキエルが見張りとされ、民に警告を与える務めが与えられたということは、主は民を裁きたいのではなく、悔い改めに導きたい、滅びではなく、むしろ救いを与えたいと思っておられるということです。つまり、エゼキエルを預言者として立てられたのは、主の深い愛によるということです。

 エゼキエルは主に、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心に納め、耳に入れておきなさい。そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい」(10節)と命じられていました。

 イスラエルの背きの罪とは、主の語られる御言葉を聞こうとしないで、神ならぬものの声に耳を傾けていたということでしょう。だから、エゼキエルに対して、繰り返し主の言葉を聞くように命じられ、従うことが求められるわけです。

 主なる神が冒頭の言葉(27節)で、「聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい」と言われました。主の御心は、私たちが主の御言葉を聞き入れて、その導きと恵みに与ることであるのは、明白です。

 主なる神は、エゼキエルの舌を上顎につかせ、物が言えないようにし(26節)、また、口を開いて主の御言葉を告げ知らせられます(27節)。エゼキエル自身がまず、どんな時にも神に従って歩み、預言者として神が語らせるまま、ただそれだけを語るように、徹底的に訓練され、整えられているのです。

 主はそのようなエゼキエルの信仰の姿勢、預言者として徹底的に主に仕え、徹底的に主に従う生き方、歩む姿を通して、イスラエルの民に御自身の御心を明らかにしようとしておられるのです。

 共に主の御言葉に心から耳を傾け、共に御旨に従って歩ませていただきたいと願います。

 主よ、どうぞ私たちの耳を開いてください。主の御声を聞くことが出来ますように。困難の中でも、素直に従う信仰を与えてください。御心を行う者となることが出来ますように。キリストにある恵みと平和が、日本全土に拡げられますように。ここを神の御国としてください。 アーメン