「主よ、わたしたちにふりかかったことに心を留め、わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください。」 哀歌5章1節

 5章は、アルファベット数と同じ22節ありますが、アルファベットによる詩ではありません。また、各節1行ずつで22行の詩です。これは、詩編74編のような民の嘆きの歌で、1節で「わたしたちに降りかかったことに心を留め、わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください」と求めて、2~18節に民の危機的な状況を述べます。

 神から与えられた嗣業の地イスラエルは異邦人の支配を受け(2節)、自分たちのものをお金を払って買わなければならなくなりました(4節)。絶えず、飢えと病と剣の危機が待ち受けています(9,10節)。

 女性は辱められ(11節)、君候、長老処刑され(12節)、若者や子どもは重労働に駆り出されています(13節)。実態を知っているわけではありませんが、終戦直後の満州などは、そういう有様だったのではないかと思います。

 18節に「シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く」とありますが、シオンの山はイスラエルの首都エルサレムの町があったところで、そこには、壮麗な王宮と神殿が建てられていました。それが荒れ果てたまま放置されているので、狐の住処になったということです。

 それは、「エジプトに手を出し、パンに飽こうとアッシリアに向かった」(6節)結果です。即ち、安心安全と繁栄を手に入れるために、主に信頼するよりも、状況に応じて北のアッシリアやバビロン、南のエジプト、また近隣諸国との同盟を図り、異教の偶像を拝んだので、主なる神の怒りを買ったのです。

 7節に「父祖は罪を犯したが、今はなく、その咎をわたしたちが負わされている」と語られていますが、荒れ果てたエルサレムに残されている民に責任がないとは言えません。イザヤ書65章7節に「彼らの悪も先祖の悪も共に、と主は言われる。彼らは山の上で香をたき、丘の上でわたしを嘲った。わたしは、初めから彼らがしてきた業をはかり、その懐に報いた」と言われています。

 またエレミヤ書16章11節にも「『お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ』と主は言われる。『彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、わたしを捨て、わたしの律法を守らなかった』」と記されています。

 哀歌の作者はしかし、その罪はひとり父祖のもの、先祖の罪の故に自分たちが苦しい目に遭っているというのではありません。16節に「いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ」と語って、それが現世代の自分たちの罪でもあることを、認めています。

 ただ、イスラエルの民が被った災い、その辛く悲しい状況を、自分たちの罪の報いと認めた上で、だからこうなったのは仕方がない、イスラエルの再興を諦めるなどというのではありません。冒頭の言葉(1節)のとおり、この状況を心に留めてください、わたしたちに目を留めてくださいと、作者は願い訴えているのです。

 ダビデ王朝は倒れ、国は滅びてしまいました。けれども、イスラエルの神、主こそ、まことの王であり、その支配は永遠に続きます(19節)。そこに、作者をはじめエルサレムに残された者たちの希望があります。その希望の上に、もう一度国を建てたいと願っているのです。

 だから、「なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか」(20節)と主に訴え、「主よ、御もとに立ち帰らせてください、わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください」(21節)と、その憐れみに縋っているのです。

 果たして、そのような日は来るでしょうか。主なる神は、彼らの願い通りイスラエルに目を留めてくださるでしょうか。それとも、激しい怒りによって永久に見捨てられてしまうのでしょうか。

 苦しみの最中にあるとき、「朝の来ない夜はない、トンネルの向こうに明るい光がある」などと言われても、「本当にそうだろうか、この夜はわたしの最後ではないか、深い洞窟の迷路に迷い込み、もはや二度と日の光を見ることはないのではないだろうか」と思ってしまうものです。

 そのことで、主イエスが十字架につけられて、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書15章34節)と叫ばれた言葉を思い出します。この主イエスの激しい叫びを、父なる神は聞かれたのでしょうか。それとも聞かれなかったのでしょうか。

 主イエスがもう一度大声で叫ばれて、そのまま息を引き取られたとき(同37節)、誰もが、この叫びに父なる神が答えてくださらなかった、主イエスは見捨てられてしまったのだと思ったことでしょう。

 けれども、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ書13章5節)と言われた神は、放蕩三昧に身を持ち崩した息子でさえも駆け寄って喜び迎えてくださる憐れみ深き父です(ルカ15章11節以下、20,22節)。

 マルコは、そのようにして息を引き取られた主イエスを見て、百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言ったと記します(マルコ15章39節)。神に捨てられて息を引き取る、それが、神の御子のメシアとしての振る舞いであり、そして、神が私たちを救うための御業であると言い表しているわけです。

 御子キリストの命をもって私たちを贖われる神は、必ず私たちの状況に目を留め、そこから救い出してくださると信じます。だからこそ、この苦しみがいつまで続くのかと尋ね、心を留めてください、立ち帰らせてくださいと訴えるのです。主によって、そうすることが許されているのです。

 主よ、どうか私たちを大いに祝福してください。祝福の地境を広げてぃださい。御手を私たちの上に置き、あらゆる災いから護り、すべての苦しみを遠ざけてください。そうして、一切のことを御心のままに行ってください。あなたこそ、生きておられる唯一の神だからです。御名が崇められますように。 アーメン