「わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう。天にいます神に向かって、両手を上げ、心も挙げて言おう。わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした。」 哀歌3章40~42節

 3章は、66節からなっています。3節づつ一括りのアルファベット歌、つまり、1~3節の文頭にはアレフ、4~6節の文頭にはベト、7~9節はギメルという具合に、ヘブライ語のアルファベット順の文字が置かれています。

 作者は、「わたしは、主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者」(1節)と語り、自分が苦しみの中にあること、その苦しみは、主なる神の怒りによるものであることを告げています。これは、自分たちが主を怒らせるようなことをしたという罪の告白であり、苦しみを被っているのが不当なことではないという理解を示すものです。

 そして、4節で「わたしの皮膚を打ち、肉を打ち、骨をことごとく砕く」と肉体を襲う痛み、5節には「陣を敷き、包囲して、わたしを疲労と欠乏に陥れ」と兵糧攻めに遭っている様子を描くなど、様々な苦しみが描写されています。17節で「わたしの魂は平和を失い、幸福を忘れた」とさえ言います。

 そして18節で「わたしは言う、『わたしの生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう』と」と語ります。即ち、作者は生きる気力を失せさせるような苦しみの中で呻きつつも、主なる神を仰いでいます。それは、ここに至って頼るべきものが、主の憐れみ以外にはないということを悟ったということではないでしょうか。

 そこで、「再び心を励まし、なお待ち望む」(21節)と言い、続けて「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」(22,23節)と言い表し、「『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む」(23,24節)と告白しているのです。

 ということは、亡国という苦しみを味わうまでは、主なる神に背き、頼りにならないものに頼っていたということでしょう。そして、主が憤られて民を守ることをやめてしまわれた結果、塗炭の苦しみを味わわせられ、自分が依り頼んでいたものがいかに無力なもの、空しいものであるかを思い知らされたわけです。

 ここに、父を裏切って家を出た放蕩息子が、財産をすべて使い果たし、飢饉の中で飢えて死のうとしていたときに、我に返って180度の方向転換をしたように(ルカ福音書15章11節以下、17節)、今、この作者をはじめエルサレムに残された民は方向転換しようとしています。

 神から目を逸らし、御言葉に耳を傾けようとしない姿勢を改め、正しく神の方向を向き、その御言葉に耳を傾け、その導きに従おうとする方向転換のことを、聖書では「悔い改め」(メタノイア)と呼びます。冒頭の言葉(40節)で「自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう」というのは、そのことです。

 そうして、「天にいます神に向かって両手を上げ心も挙げて言おう」(41節)と語ります。「両手を上げる」は2章19節にもありましたが、これは、主への賛美(詩編134編2節)、あるいは主に祈りを捧げる姿勢です(同28編2節)。

 つまり、主を喜び、主に感謝して、「ハレルヤ!万歳!」とほめ讃える表現であると同時に、もうお手上げです、すべてを明け渡して無条件降伏します、私たちを助け導いてくださいと願い求める表現でもあります。

 しかも、「両手を上げ心も挙げて」と言われています。口語訳では「手と共に心をもあげよう」と記されています。これは、手を上げる姿勢というのではなく、心から主に願い求めているということでしょう。「手」は「手のひら」(カフ)という言葉です。開いた手のひらに心を乗せて差し出すということで、悔い改めた心を見ていただこうという思いの表われのようです。

 かつて、エルサレムには荘厳な主の神殿がありましたし、そこで主に向かって大量の生贄を捧げる盛大な儀式が行われておりました。けれども、主なる神はそれを喜ばれませんでした。そこに、主にのみ前に謙ってみ言葉に聴き従おうとする心がなく、主から受けた恵みに対する真の喜び、感謝の心を見ることが出来なかったからです。

 詩編51編18,19節に「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけには打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と記されているとおりです。

 ところで、自分の力で心を入れ替えることが出来るでしょうか。私には出来ません。そのつもりはありますが、何とかやってみようと努力はしますけれども、残念ながら、長続きしません。まさにお手上げです。

 そして、主もそれをよくご存じです。勿論、両手を上げさえすれば、主なる神に頼ると言いさえすれば、背きの罪を赦されるということでもありません(42節)。ですから、作者は「主よ、生死に関わるこの争いを、わたしに代わって争い、命を贖ってください」(58節)と願っています。

 つまり、自分自身では買い戻すことの出来ない命を、「最も近い親戚」(ゴーエール)として、主なる神に買い戻してくださいと願っているのです(レビ記25章25節、ルツ記2章20節参照)。それは、一切を主に委ね、その導きに従うほかはないということです。

 「♪慈しみ深き友なるイエスは、罪、咎、憂いを取り去りたもう。心の嘆きを包まず述べて、などかは降ろさぬ、負える重荷を♪」(新生讃美歌431番1節)。

 主の慈しみに信頼し、自分の心をありのまま、神にお見せしましょう。主の御前に身を屈め、心から御言葉に耳を傾けましょう。御旨をわきまえ、喜びをもって導きに従いましょう。

 求める者に聖霊を与えてくださると約束してくださった天のお父様、どうぞ、私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御救いの喜びを味わわせ、自由の霊によって支えてください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。この口はあなたの賛美を歌います。御名が崇められますように。 アーメン