「その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである。」 エレミヤ書50章20節

 46章から語り始められている諸国民に対する預言の最後に、諸国民を打つ主の剣として遣わされるバビロンに対して、50~51章と大きなスペースをとって、主の言葉が語られます(1節)。諸国民に対する預言の初めがエジプト、最後がバビロンというのは、両国がイスラエルを南と北から挟む強大な国であり、共に他国民を隷属させた国ということなのでしょう。

 因みに、バビロンをヘブライ語では「バベル」と言います。創世記11章9節で言葉が乱されて高い塔(バベルの塔)を建設することをやめた町の名が「バベル」と呼ばれていますが、同じ綴りですから、それはバビロンの町のことを言っているということになります。

 話を戻して、2節に「バビロンは陥落し、ベルは辱められた。マルドゥクは砕かれ、その像は辱められ、偶像は砕かれた」と言われます。「ベル」は「主」という意味で、バビロンの主神マルドゥクを指しています。

 もともと、マルドゥクはバビロンの町の守護神でしたが、この町がバビロニア帝国の首都となったので、帝国の最高位の神として崇められるようになりました。しかしながら、帝国の首都バビロンが陥落すると、マルドゥクの威光も地に落ち、全く空しいものとなると言われているのです。

 かつて、イスラエルが約束の地に入るに当たり、主なる神は「あなたの神、主があなたの前から彼ら(アナクの子孫)を追い出されるとき、あなたは、『わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである」(申命記9章4節)と言われたことがあります。

 その意味で、バビロンがイスラエルをはじめパレスティナ諸国を敗北せしめ、多くの民を捕囚としたのは、バビロンが心正しく神の前を歩んでいたからではありません。イスラエルが主なる神に背き、異教の神々に心迷わせ、それに仕える生活をして、神の怒りを買ったからです。

 捕囚となって70年の時が満ちたとき(25章11,12節、29章10節など)、今度は「一つの国が北からバビロンに向かって攻め上り、バビロンの国を荒廃させ」(3節)ます。「一つの国が北から」と言われていますが、この方角はユダから見てということで、実際にバビロンを攻め寄せるのは、東方のエラムとメディア(イザヤ書21章2節)、即ちペルシアのことです。

 北からの敵という預言について、主はユダを裁くために「北」からバビロンを攻め上らせられました(1章13節以下、4章5節以下、6章22節以下など)。バビロンに向かって「北」から一つの国が攻め上るというのも、それが主なる神の裁きであることを示しているのでしょう。

 主なる神は、ペルシアの王キュロスに油を注いで(イザヤ書44章28節、45章1節など)、神に背く罪を犯しているバビロンを罰するのです。それを14節で「バビロンは罪を犯した」と言われ、18節で「見よ、かつてアッシリアの王を罰したように、今、わたしはバビロンの王とその国を罰する」と告げられます。

 そうして、「イスラエルを元の牧場に連れ戻す。イスラエルはカルメルとバシャンで草をはみ、エフライムとギレアドの山で心ゆくまで食べる」(19節)と語られます。カルメルやバシャン、エフライムとギレアドなどは、北イスラエルに属する地域です。エレミヤはここで、南ユダのみならず、北イスラエルをも含めた回復を語り告げているわけです。

 さらに冒頭の言葉(20節)のとおり、「その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである」と語ります。

 「イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない」と言われていることについて、31章34節で「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と語り、33章8節でも「わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す」と告げられていました。

 これは、主とユダの民との間に結ばれる、新しい契約のことです。かつて、イスラエルの民がエジプトを脱出した際、シナイ山において主と契約を結びましたが(出エジプト記24章参照)、今度は、バビロンに捕囚とされたユダの民と新しい契約を結ぼうと言われるのです(31章31節以下、32章40節)。

 ユダの民がバビロンから解放されて帰国を果たすことが出来、そして、彼らの罪を赦すと言われるのは、彼らがバビロンで心正しく歩んでいたからではありません。主のユダに対する深い愛と憐れみのゆえです。そしてこの新しい契約は、御子イエス・キリストが十字架にかかって贖いの死を遂げられたことによって、成立しました(ヘブライ書8,9章参照)。

 私たちも、主イエスを信じる信仰によって、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。神の一方的な恵みにより、主との契約関係に入れていただいたのです。

 高ぶってはなりません。いつも主の前に謙り、神の力強い御手の下で自らを低くしましょう。そうすれば、あらゆる恵みの源である神が私たちを高く上げ、完全な者として強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます(第一ペトロ書5章6,10節参照)。

 主よ、あなたは私たちの罪を赦すと宣言されました。そして、御子イエス・キリストの十字架の死と甦りによって、それを確かなものとされました。私たちは、神の変わることのない生きた御言葉によって新たに生まれたのです。その御業に心から感謝して主の御名を褒め称えます。主の福音を力強く証しするため、聖霊に満たされ、その力を受けることが出来ますように。 アーメン