「しかし、終りの日に、わたしはモアブの繁栄を回復すると、主は言われる。ここまでがモアブの審判である。」 エレミヤ書48章47節

 48章には、モアブの審きが記されています。モアブは、ロトの姉娘がロトによって産んだ男児の名であり、その子孫がモアブ人です(創世記19章37節)。因みにロトの妹娘はベン・アミを産み、それがアンモン人の先祖となりました(同38節)。

 ロトは、アブラハムの甥(弟ハランの子)ですから(同11章31節)、イスラエル人とモアブ人,アンモン人とは、血のつながりのある親戚関係ということになります。しかし、双方の関係は決して良好とは言えません。そもそも、アブラハムとロトは、財産が多すぎて一緒に住めず、家畜を飼う者たちの間で争いが起きたため、二手に分かれたという経緯があります(同13章)。

 それから数百年後、イスラエルがエジプトの奴隷から解放されて約束の地に向かって進んでいるとき、主なる神が、モアブ、アンモンについて、彼らを敵として戦いを挑んではならない、それは既にロトの子孫に領地として与えたものだと言われました(申命記2章9,19節)。モアブ人の領地は、北をアンモン、南をエドム(セイルの山地)に挟まれた死海東岸の地域です。

 そのとき、モアブの王バラクは、イスラエルの大軍に恐れをなし(民数記22章以下)、遠くアラム・ナハライムの地から預言者バラムを雇い、イスラエルを呪わせようとしました。そのため主は、「アンモン人とモアブ人は、決して主の会衆の加わることができない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることができない」(申命記23章4節)と言われました。

 ただし、ダビデ王の曾祖母ルツは、モアブ人であり(ルツ記1章4節)、また、ダビデの逃避行の最中、両親をモアブの王に託すということがありましたので(サムエル記上22章3,4節)、非常によい関係のときもあったようです。けれども、ダビデが王となった後、モアブを討って彼らを隷属させており(サムエル記下8章2節)、その後、しばしば戦いが繰り返されています。

 イザヤ書15,16章、エゼキエル書25章、ゼパニヤ書2章にもモアブの滅びを預言する言葉があります。それは、彼らがイスラエルに対して高ぶり、嘲ったからということのようです(29,30節参照)。それは、かつて隷属させられた恨みから、バビロンに攻め囲まれたとき、イスラエルを嘲ったといったことでしょう。

 そして、主なる神がアブラハムを祝福して、「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12章3節)と言われたことが、ここでも生きて働いているということになります。

 エレミヤは7,8節で「自分の業と富に頼ったゆえに、お前もまた占領される。ケモシュは捕囚となっていく、その祭司も役人たちも共に。略奪する者がすべての町を襲い、一つとして免れるものはない。谷は滅び、平野は荒らされる。主が言われたとおりである」と裁きを告げます。

 モアブの奢りは、一つはぶどう酒製造によってもたらされた富により(32,33節)、今一つはケモシュ礼拝によります。ここでは、富もケモシュ神も、主の裁きの前には何の頼りにもならないことが明示されており、それゆえ他国に占領され、捕囚とされるのです。

 ところが、冒頭の言葉(47節)のとおり、「終りの日に、わたしはモアブの繁栄を回復する」と主が言われます。なぜ、主はモアブの繁栄を回復されるというのでしょうか。その理由は記されていません。

 ただ、それが主なる神のご計画であるとしか、言いようがありません。即ち、主の選びの民ではない、否むしろ、決して主の会衆に加わることができないといわれるモアブをさえ、主は憐れまれるということです。

 歴史的には、イスラエルと同様バビロンに屈服させられ、後に反逆して、さらにひどい荒廃を味わい、結果として国としてのアイデンティティーが失われ、再びそれが回復することはありませんでした。それでも、終わりの日には、主なる神の憐れみによって回復されるという希望は、決して失望に終わることはないのです。

 であれば、ましてご自分の名をもって贖い出したイスラエルの民を憐れまず、苦難のうちに滅びを刈り取らせたまま放置されるようなことはありません。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29章11節)と言われるとおりです。

 「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩編145編14節)。その深い憐れみに信頼し、神の民として立ち上がらせていただきましょう。主が支えてくださいます。 

 主よ、あなたがモアブを憐れまれたように、私たちをも憐れみ、絶えず目を留め、恵みをお与えくださることを感謝致します。私たちが御名を呼び、祈り求めるとき、親しく聞いて答え、その栄光を見せてくださいます。主の平和の計画を信頼し、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰で前進させてください。平和の神ご自身が、私たちを全く聖なる者としてくださいますように。 アーメン