「災いだ、主が剣を取られた。いつまで、お前は静かにならないのか。鞘に退き、静まって沈黙せよ。どうして、静かにできようか。主が剣に命じて、アシュケロンと海辺の地に向けて遣わされたからには。」 エレミヤ書47章6,7節

 47章には、ペリシテに対する預言が記されています。表題に「ファラオがガザを撃つ前に」と記されていますが、それが歴史的にいつのことを指しているのかは、定かではありません。

 岩波訳の脚注に「パロ・ネコが前609年にメギドでヨシヤを殺した後、ペリシテ人の町ガザを攻撃したことが、前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトス(『歴史』Ⅱ,159)によって報告されている」と記されています。

 その後に「但し2節以下は、ガザだけでなく全ペリシテへの攻撃を問題としており、しかも攻撃するのは『パロ』ではなく『北から』のバビロニアと思われるので、1節の表題自体、2節以下の預言に余りそぐわない。70人訳のように元来の表題は『ペリシテ人について』とだけなっていて、後代まちがった敷衍がなされた公算が大きい」と付け加えられています。

 紀元前605年にカルケミシュでエジプト軍を撃破したバビロン軍が、勢いを駆ってパレスティナに進撃し、前604年にアシュケロンを滅ぼしました。このとき、ペリシテ全地がバビロンに占領されたのではないかと思われます。

 援軍を求められたエジプトも、しばらくバビロンに抑え込まれていましたが、前601年に勢いを取り戻し、ネブカドネツァル軍に打撃を与えて、パレスティナを奪回することに成功しました。ファラオがガザを撃つとは、あるいは、そのときのことを指しているのかも知れません。

 2節以下に記されているのは、バビロン軍の攻撃です。それを「北から水が湧き上がり」と、ユーフラテス川の氾濫を思わせるような表現で示しています。46章7節には「ナイルのように湧き上がり、大河のように逆巻く者は誰か」と、エジプト軍の攻撃のことが描かれていました。

 バビロン軍のアシュケロン攻撃は、先に記したとおり、前604年に起こっています。つまり、先ずバビロン軍によるペリシテの撃破があり、その後、前601年にエジプト軍がペリシテにいるバビロン軍を打つためにやって来たのです。それが、「ファラオがガザを打つ前にペリシテ人に向かって」、紀元前605年にエレミヤによって語られた主の言葉ではないかということです。

 あるいは、ファラオ・ネコがアッシリアを援助するためにカルケミシュに出陣した紀元前609年、メギドでユダの軍隊を打ち破ったときに、先にガザを撃破していた可能性も排除出来ませんが、それでは、その前にエレミヤに主の言葉が臨んだという時期が分らなくなります。いずれにせよ、バビロンとエジプトという南北の大国に挟まれて、ペリシテが翻弄される様子をそこに見ることが出来ます。

 6節で「主が剣を取られた」と言われています。主が御自分の剣として用いられるのが、バビロン軍であり、また、エジプト軍であるわけです。5節の「頭をそり落とし」は、武士が髷を切られて辱められたといった表現のように見えますが、その後の「身を傷つける」と合わせて、愛する者を失ったという最も深い悲しみを表わすしるしかも知れません。

 それによって、いつまでこの苦しみが続くのか、この悲しみは癒されないのかと問う表現と見るわけです。だから、「いつまで、お前は静かにならないのか。鞘に退き、静まって沈黙せよ」(6節)というのです。けれども、主がペリシテを滅ぼすことに決めておられるので(4節)、徹底的に滅ぼし尽くされるまで、剣が鞘に退いて鎮まることはありません(6,7節)。

 なぜ、主の剣がペリシテに送られ、滅ぼされることになるのか、その理由は、ここには全く説明されてはいません。しかし、イスラエルと国境を接する国として、長い歴史の中で繰り返された戦いの記憶があって(士師記3章1節以下、サムエル記上4章1節以下など)、それを必要としなかったのかもしれません。また、神の裁きの前に、罪なしとされる民族、国家は存在しないでしょう。

 ただ、この預言がペリシテの民に対して伝えられたとも思われません。なぜ、この預言が語られたのかを考えると、単に主がユダを喜ばせるために仇敵に報復されることをエレミヤに告げられたということではないでしょう。ペリシテもユダも、そしてバビロンやエジプトも、すべて主の御手のもとにあるということ、主は世界の歴史を支配しておられるをユダの民に知らせたいのです。

 主の剣という表現について、新約聖書中に「霊の剣、すなわち神の言葉」(エフェソ書6章17節)、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ書4章12節)という言葉があります。

 この剣を振り回して、他人を裁き、滅ぼす道具として用いることも出来るでしょう。そして、その裁きは正しいものです。しかし、腕のよい医師の手にあるメスのように、人々の内にある悪しきものを切れ味鋭く切り取り、切り離し、人を豊かに生かすための道具として用いることも出来ます。

 そのことでパウロは、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」(第二コリント書3章6節)と言います。新約の使徒としてなす福音宣教が、殺す文字ではなく、生かす霊に仕える働きだというのです。 それが、「霊の剣」の働きと言ってもよいでしょう。

 第二テモテ書3章16節に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です」と記されています。日々いただく御言葉を通して、自分の内側を点検し、主の御心に相応しくないものを取り除き、御旨に添う歩みをすることが出来るように、祈りつつ励みましょう。

 「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(同3章17節)。

 主よ、御霊と御言葉の導きにより、心の内側から新たにされ、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか、わきまえることが出来ますように。怠らず励み、霊に燃えて主に仕える者としてください。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、絶えず祈りに導いてください。そのために、内側から整えてくださいます。御名が崇められますように。 アーメン