「わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰ってきて、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。」 エレミヤ書46章27節

 2節に「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年」とあり、45章と同様、これが紀元前605年のことであることを示しています。そして、「ユーフラテス河畔のカルケミシュに近い地点に出陣していたエジプトの王ファラオ・ネコの軍隊に対する言葉」と記されています。

 エジプトのファラオ・ネコは、その4年前、紀元前609年にメギドでユダの王ヨシヤと戦ってこれを打ち破り、ユーフラテス河畔のカルケミシュに進軍しました(列王記下23章29節、歴代誌下35章20節)。それは、アッシリアを助力し、勢力を伸ばしてきたバビロンを牽制するための出陣でした。

 エジプトとしては、アッシリアとバビロンとが牽制し合う状態でいてくれる方が、国防上都合がよかったのです。ユダの王ヨシヤは、アッシリアに苦しめられていましたから、バビロンによってアッシリアが滅ぼされることを期待していたでしょう。だから、アッシリアを助力しようとするエジプトの領土通過を看過できなかったのです。

 エジプトは、クシュとプト、ルドの兵に呼びかけて(9節)、戦いに臨んでいました。クシュはエチオピア、プトはリビア、ルドは複数形で、エジプト人の子孫でアフリカの民族を指すようです。けれども、「ユーフラテス川の岸辺」(2,6,10節)のカルケミシュに出陣したエジプト軍は、バビロンとの戦いに敗れました(2節)。

 10節に「その日は、主なる万軍の神の日、主が敵に報いられる報復の日」と記されており、エジプトの敗戦をなる万軍の神の報復と説明しています。主なる神が敵となられれば、エジプトがどんな大軍をもってしても、打ち勝つことは出来ません。ということは、エジプトがアッシリアを助けようとして出陣したのを、ヨシヤが妨げようとする必要などなかったわけです。

 ここで「報復の日」とは、ヨシヤ王のための報復と考えるのが、最も分かり易いところですが、歴代誌下35章20節以下の記述によれば、メギドの戦いについては、ファラオ・ネコが望んで行ったのではなく、むしろ、戦いを回避しようとしたのに、ヨシヤがネコを通して語られる主の言葉に耳を貸さなかったことが原因というのですから、その件でエジプトに罪はないということでしょう。

 むしろ、ユダに働きかけて、反バビロン連合を形成しようとしたことなどが、主なる神に敵対する行為と考えられたのではないでしょうか。主が「カルデア軍に投降する者は生き残る」(38章2節など)と言われるのに、ユダの民は、エジプトを頼りとして徹底抗戦することにしたからです。 

 13節以下の預言は、バビロンがエジプトに進軍して、その戦いにエジプトが敗れることを告げています(19節以下、24節)。25節に「見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する。またファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に頼る者を罰する」と記されており、エジプトがバビロンに敗れる理由を、アモン神に代表されるエジプトの神々に頼っているからと説明しています。

 ところで、14節に「エジプトで告げ、ミグドルで知らせよ。メンフィスとタフパンヘスで知らせて言え」(14節)と言われていますが、これらの町は44章1節で、「エジプトのミグドル、タフパンヘス、メンフィス並びに上エジプト地方に住む、ユダの人々」と語られており、バビロン捕囚後、総督ゲダルヤが暗殺されて、その報復を恐れるユダの人々が難を逃れて居住地とする町々です。

 ということは、これらの言葉は、そこに住むユダの人々に向けて語られていることになります。即ち、エジプトがその偶像礼拝の罪のゆえに、あるいは、かつてイスラエルに対してなした悪、敵対行為のゆえに主に裁かれるとユダの人々に語ることで、彼らがバビロンを恐れてエジプトに逃れているのは、主の御心に反するものであると予告しているわけです。

 そして、冒頭の言葉(27節)のとおり、「わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す」と語られます。これは、「捕囚の地」、即ちバビロンにいるユダの民のことを指していますが、エジプトにいる民に語りかけることで、彼らがもう一度主の御言葉に信頼して、エルサレムに帰ってくることを促す意図があるのでしょう。

 ユダの人々が主の御言葉に聴き従うことこそ、かつて彼ら自身が「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから」(42章6節)と語っていたとおり、最も善いことなのです。

 詩編34編で詩人が「主は従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる」(16節)、「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」(19~21節)と詠います。

 主に従う者は、災いには遭わないというのではありません。むしろ、災いが重なると言います。しかし、そのところで主が神であられることを知る、主が恵み深いお方であることを味わう救いを経験するというのです。

 御前に謙り、主の御声に耳を傾けましょう。その導きに従って歩みましょう。 

 主よ、深い憐れみにより、絶えず私たちに目をとめ、祈りに耳を傾けてくださり、感謝致します。いつも、「恐れることはない」と呼びかけてくださる主の言葉に慰められ、励まされます。私たちに恐れと疑いをもたらす嵐も、主の一言で静められ、私たちは平安に満たされます。常に御言葉に耳を傾け、その導きに従うことが出来ますように。 アーメン