「あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、わたしは生けるものすべてに災いをくだそうとしているからだ、と主は言われる。ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える。」 エレミヤ書45章5節

 1節に「ユダの王ヨシヤの子ヨヤキムの第4年」とあり、これは36章1節と同じで、紀元前605年のことです。その意味で45章の記事は、36章8節に続く出来事と考えてよいでしょう。

 36章で主なる神がエレミヤに預言の言葉を書き記すように命じられ(同2節)、エレミヤはネリヤの子バルクに口述筆記をさせました(同4節)。それに続いて、バルク自身について語られた主の言葉をエレミヤが告げたのが、今日の箇所45章です。

 3節にバルク自身の言葉が引用されています。これがどのような状況で語られたものか、詳細は分かりませんが、「あなたは、かつてこう言った」という言葉から、バルクが語ったのは、36章で言われるユダとエルサレムに臨む神の裁きが書き記される前のことだと考えられます。

 バルクが何に苦しみ、主が加えた悲しみとはどのようなものか、具体的に記されているわけではありませんが、「わたしは建てたものを破壊し、植えたものを抜く。全世界をこのようにする」(4節)という言葉から、この世が主に聴き従わないことに苦しみ、それを断罪する預言者の活動が制限されることを悲しく感じているということなのでしょう。

 44章3,4節に、バルクが預言者エレミヤを唆して「エジプトへ行って寄留してはならない」と告げさせているのだろうといったヨハナンらの言葉がありました。これは、バルクが単なるエレミヤのメッセンジャーボーイなどではなく、自身の意志で発言し、行動しているという証しのようです。

 バルクの苦しみは、エレミヤ自身の悲しみ、苦しみでもありました(20章7節以下参照)。そればかりか、これは、主ご自身の痛みでもあったのです。預言者を遣わして預言を語らせておられるのが、主だからです。それゆえ、聴き従わないこの世を破壊し、抜き取ることにされたのです(4節)。

 エジプトの奴隷の苦しみから救い出し、契約を結んで約束の地に住まわせたイスラエルの民が主に背き、罪を侵し続けているため、その呪いを受けてエルサレムの都が破壊され、神殿は焼かれ、ユダの民は剣か飢饉か疫病か、あるいは捕囚という苦しみを味わわなければならないのです。

 かつて、すべての民の間にあって主の宝となり(出エジプト19章5節)、主にとって祭司の王国、聖なる国民とされたイスラエル(同6節)断罪し、刑罰を与えなければならなくなった主の心情は、エレミヤやバルク以上に、はるかに辛く悲しいものであったに違いありません。

 冒頭の言葉(5節)に「あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか」とありますが、バルクがどんなことを期待していたのか、その内容は分かりません。もしかすると、エレミヤと共に活動することで、評価されることを求めていたということでしょうか。であれば、バルクは師と仰ぐ人物をとり違えました。ゆえに、彼は人々から疎まれるものとなりました(43章3節参照)。

 51章59節に「ネリヤの子であるセラヤ」なる人物が、ゼデキヤ王の宿営の長と言われています。バルクも「ネリヤの子」(1節)であることから、セラヤとバルクが兄弟同士であるならば、バルクも政治的に高い地位を手に入れたいという願いを持っていたかも知れません。しかしながら、主の裁きがイスラエルに下れば、一切のものを失うことになってしまいます。

 5節後半に「ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える」と言われています。「守る」と訳されているのは、「シャーラール=分捕り物、戦利品」という言葉です。21章9節の「助かる」、38章2節の「助かって」、39章18節の「助かって」も同じ言葉です。命以外の戦利品はないということで、ようやく生き延びているということでしょう。

 バルクは、常にエレミヤと行動を共にしているので、ヨハナンらによってエジプトに連行されることになります。エジプトに下ろうとしている者に対して、43章8節以下、厳しい裁きの言葉が語られていました。

 44章14節に「少数の難を免れた者を除けば、だれも帰ることはできない」と告げられていて、バルクはその少数者の一人になったでしょう。だから、バルクへの言葉が、この場所に置かれることになったのだと思われます。

 この後、バルクがどのような行動をとったのか、正確には分かりません。たとえば、エルサレムに戻ったとか、あるいはバビロンに身を寄せたとか。いずれにせよ、苦難に取り囲まれ、命からがらではありましょうけれども、彼は生き残り、エレミヤの語った預言の言葉とその生涯の出来事について、後世に書き残すことが出来たのです。

 彼が生きている間にその役割が評価され、正当に報いを受け取ることはできなかったかも知れません。「そのような期待を抱いてはならない」(5節)と言われているからです。けれども、エレミヤ書が残された功績は、計り知れません。天において、大きな報いに与ったことでしょう。

 主イエスが、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ福音書8章34~36節)と言われました。

 使命を負って主に従う者の幸いを思います。その時、その人は、自分で自分の命を守る自己責任から自由になり、そこにおいて初めて、真の命に生きる者とされるのです。主イエスこそ、道であり、真理であり、命であられるからです(ヨハネ福音書14章6節)。

 心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにならせていただきましょう。 

 主よ、人は皆草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようです。草は枯れ、花は散ります。しかし、あなたの御言葉は永遠に変わることがありません。主の福音によって信仰に導かれた私たちが、御言葉に土台し、御言葉に従って歩み、その真実と恵みを証しすることが出来ますように。栄光が世々限りなくあなたにありますように。 アーメン