「エジプトの地へ移って寄留しているユダの残留者には、難を免れて生き残り、ユダの地に帰りうる者はひとりもない。彼らは再びそこに帰って住むことを切望しているが、少数の難を免れた者を除けば、だれも帰ることはできない。」 エレミヤ書44章14節

 エジプトに下ったユダの民は「ミグドル、タフパンヘス」(ナイル川デルタ地帯)、「メンフィス」(古代エジプトの首都、カイロの南20㎞)、「上エジプト地方」(エジプト南部)と、エジプト各地に広く散らばって居住していました(1節)。

 彼らに対して、預言者エレミヤに主の言葉が臨みました(1節以下)。それは、ユダの民の罪を厳しく裁く言葉です。広く散らばっているユダの民への言葉というのですから、恐らく彼らが祭儀で集まってきたときに、語りかけたのでしょう。

 8,9節に「何故、お前たちは移って寄留しているエジプトで、自分の手で偶像を造り、異教の神々に香をたき、わたしを怒らせ、自分を滅ぼし、世界のあらゆる国々で、ののしりと恥辱の的となるのか。ユダの国とエルサレムの巷で行われたお前たちの父祖の悪、ユダの王と王妃たちの悪、また、お前たち自身と妻たちの悪を忘れたのか」と記されています。

 即ち、エルサレムとユダのすべての町が荒れ果てて廃墟となったのは、異教の神々を拝むという悪を行って神を憤らせたからだったのに、エジプトに下った彼らは、それを悔い改めようとせず、むしろ異教の神々の像を自ら造り、それを拝んでいるというのは、神を畏れない所業だというわけです(10節)。それゆえ、神は民に災いを下し、ユダをことごとく滅ぼすと言われるのです(11節)。

 それを聞いた民らは悔い改めるどころか、むしろエレミヤに反論して、「あなたが主の名を借りて我々に語った言葉に聞き従う者はない。我々は誓ったとおり必ず行い、天の女王に香をたき、ぶどう酒を注いで献げ物とする」(16,17節)と言い放ちます。彼らがエジプトに下ることにして以来、主の言葉に聴き従う心を失ってしまったようです(43章4節)。

 彼らが主の言葉に聴かない理由を、「我々は、昔から父祖たちも歴代の王も高官たちも、ユダの町々とエルサレムの巷でそうしてきたのだ。我々は食物に満ち足り、豊かで、災いを見ることはなかった。ところが、天の女王に香をたくのをやめ、ぶどう酒を注いでささげなくなって以来、我々はすべてのものに欠乏し、剣と飢饉によって滅亡の状態に陥った」(17,18節)と告げました。

 つまり、異教の偶像を拝んだから滅びたのではなく、偶像を拝むのをやめたから乏しくなり、滅亡したという説明です。だから、もう一度しっかりと偶像を拝むことにしたというわけです。

 これは、ヨシヤ王の宗教改革と非業の死から、イスラエルは滅亡に向かったこと、マナセ、アモンという異教の神に積極的に仕えていた時代の方が繁栄していたのだという主張です。ここに、確かに彼らは神に背き、その怒りを買う者たちであることが、はっきりと示されています。

 以前、右翼の人々が、我々が戦争について反省するのは、戦争を始めたことではなく、戦争に負けたことだと語っているのを聞いて、冗談だろうと思ったことがあります。彼らは、過去の歴史から何も学んでいないのです。きちんと学べば、物量においてはるかに優る米国に対し、勝てるはずもない戦争を始めたこと自体、決定的な誤りだったと分かるはずではありませんか。

 エレミヤは冒頭の言葉(14節)で、「エジプトの地へ移って寄留しているユダの残留者には、難を免れ生き残り、ユダの地に帰りうる者はひとりもない。彼らは再びそこに帰って住むことを切望しているが、少数の難を免れた者を除けば、だれも帰ることはできない」と語っています。

 この言葉の前半で、「難を免れ生き残り、ユダの地に帰りうる者はひとりもない」と言われますが、後半では、「少数の難を免れた者を除けば」と、少数の例外者があることを示しています。

 もしも、ユダの民が16節以下に記されているとおり、偶像を拝むのをやめたから国が滅びたと考え、それゆえもう一度偶像礼拝を断固行うということであるならば、生き残る者はひとりもないという結果になってしまうでしょう。そこに「少数の難を免れた者」が出る可能性は、ゼロではないでしょうか。

 にもかかわらずそのように言われるのは、その人々が自分の知恵や力でその難局を乗り越えられるというのではなく、少数の者が特別に神の憐れみを受けた、それ以外の何ものでもなかったということになるでしょう。だれも、自分の行いなどで神の救いを獲得することは出来ないからです(エフェソ書2章8,9節)。

 ペトロも「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(第一ペトロ書5章5~7節)と告げています。

 謙遜が神の恵みを受ける不可欠の前提であるならば、神の力強い御手のもとに身を屈め、自分に与えられた運命を進んで受け止める必要があります。それは諦めではありません。神の全能の御手に支えられていることを知っているからです。すべてを主に委ね、その導きに従うことにより、主の約束の御言葉に基づく希望が確かなものとなっていくのです。

 私たちに絶えず目を注ぎ、すべての必要を豊かに満たし与えてくださる主なる神に信頼し、あらゆる思い煩いを主に委ね、私たちのなすべき務めに全力で励みましょう。私たちの労苦は決して無駄にはなりません。神がイエス・キリストによって勝利をお与えくださるからです(第一コリント書15章57,58節)。 

 主よ、私たちがまだ弱く、罪人であり、敵であったときに、御子キリストが私たちのために十字架に死なれ、神の愛を示され、あなたと和解させてくださいました。神の栄光に与る希望をもって主を誇り、感謝と賛美をささげます。絶えず御言葉に耳を傾けます。御心をわきまえ、聖霊の導きに従って歩ませてください。御心がこの地になりますように。御国が来ますように。 アーメン