「ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。『あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、「エジプトへ行って寄留してはならない」と言っておられない』。」 エレミヤ書43章2節

 ヨハナンたちの求めに応じて、主の言葉が預言者エレミヤによって語り伝えられました(1節)。それは、イスラエルに留まるなら、主が共にいて必ず救い、バビロンの王の手から助け出す(42章11節)、憐れみを示す(同12節)、エジプトに行って寄留しようと決意している者はすべて剣、飢饉、疫病で死ぬ。災いを免れ、生きる残る者はひとりもない(同17節)というものです。

 ヨハナンたちは「わたしたちは必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います」(同5節)と約束していましたが、彼らは主の御告げのとおり、イスラエルに留まろうとはしません。

 それどころか、冒頭の言葉(2節)のとおり「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしてはいない」などと言い、民全員が、全くその御言葉に聞き従おうとはしません(4節)。彼らはすべての民を集め、エレミヤとその書記バルクをも伴い(5,6節)、エジプトの地に赴きました(7節)。

 エレミヤの言葉を偽りとした根拠について、「ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ」(3節)と言っています。

 バルクがエレミヤの書記を務めただけでなく(36章2,4節)、エレミヤに対して影響力のある助言をしていたというのは興味深いところです。ただ、それを示す証拠を本書中に見出すことは出来ません。 

 そのような振る舞いが神を喜ばせないどころか、怒りを招く愚かな行為であるということが、8節以下の「エジプトにおける預言」の言葉に示されています。エレミヤは、バビロンの王ネブカドレツァルによるエジプトの審きを告げます。ということは、エレミヤとバルクがエジプトに赴いたのは彼らの意志によらず、ヨハナンたちに強制連行されたということでしょう。

 ユダヤ人歴史家ヨセフスが著書『ユダヤ古代史』に「エルサレム陥落後5年、ネブカドネツァルの第23年に、ネブカドネツァルはコイレ・シリヤに進撃し、これを占領した後、モアブ人とアンモン人と戦った。これらの国々を従えてから、彼はエジプトに侵入し、これを屈服させた。位についた王を殺し、新しい王を定め、その地にいたユダヤ人を捕らえてバビロンに連れ去った」と記しているそうです。

 それが正しければ、エレミヤが告げた言葉が実現したことになりますが、残念ながら、それを裏付ける歴史的、考古学的事実を見出すことが出来ません。バビロンの資料には、ネブカドレツァルの治世第37年、エジプトのアフメネスⅡ世と戦ったとあるそうですが、その結果はしかし、占領には至りませんでした。

 エジプトは、ペルシア時代に征服されるまで、独立を保ち続けました。ネブカドレツァルの攻撃は、占領を目的としていたというよりは、バビロンに敵対しても無駄だということを知らしめる、牽制的、あるいは警告的なものだったようです。

 その意味で、エレミヤの預言が文字通りに実現することはなかったということになりますが、エジプトが滅びるかどうかが問題ではありません。エレミヤが語っているのは、エジプト軍はイスラエルの民を守ってはくれず、その神々も頼りにはならないということなのです(12,13節)。

 エレミヤの言葉を「偽り」と断じたアザルヤやヨハナンのことを、聖書は「高慢な人々」と括っています。彼らは、自分たちの決定をエレミヤの告げる主の御言葉よりも大事にし、そうして、主なる神を蔑ろにしているのです。その態度が「高慢」と言われているわけです。

 ヤコブ書4章4節に「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵になることだとは知らないのか」とあり、箴言3章34節を引用して「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコブ書4章6節)と記しています。高慢な者、不遜な者は、神を敵とし、世を友とすること、そうなりたいと願う者だというのです。

 そして、世の友、神の敵とならないために「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(同8~10節)と語ります。

 「主の前にへりくだる」とは、主を畏れて御前に身を低くし、御言葉に聴き従うことです。私たちは今、日毎に御言葉を聴き、静かに御言葉を瞑想すること、主に祈ることを教えられています。そこで聴いた言葉を繰り返し口ずさみ、瞑想し、またその導きに従って歩むことを通して、御言葉が確かに神の言葉であることを知り、味わいます。

 御言葉はまた、教会を清めます。エフェソ書5章26節に「言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」とあります。教会とは、礼拝堂(チャペル)のことではありません。主イエスを信じる信徒の集まりをエクレシア=教会と言います。だから、私たちが繰り返し主の御言葉を口ずさみ、瞑想することによって、私たち自身が主キリストのものとして清められるのです。

 謙って主に近づき、その御言葉に耳を傾けましょう。聴いた主の御言葉を口ずさみ、瞑想しましょう。そうして主の御心をわきまえ、導きに従って歩みましょう。 

 主よ、あなたの愛と憐れみのゆえに感謝致します。私たちは、キリストの贖いなしに御前に進むことの出来るものではありませんでした。絶えず感謝をもって御前に進み、悔い改めて福音に生きることが出来ますように。ただひたすら、あなたの恵みに依り頼みます。御前に謙る者を高く引き上げてくださると、約束されているからです。 アーメン