「ゼデキヤ王は使者を送ってエレミヤを連れて来させ、宮廷でひそかに尋ねた。『主から何か言葉があったか』。エレミヤは答えた。『ありました。バビロンの王の手にあなたは渡されます』。」 エレミヤ書37章17節

 「ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた」(1節)というのは、紀元前597年のことです。コンヤとはヨヤキンのことで(列王記下24章8節以下参照)、ヨヤキム以来の反バビロン政策に対してバビロンがエルサレムに攻め寄せ、コンヤ=ヨヤキンはバビロンに降伏して捕囚となります(同12,15節)。これが、第一次バビロン捕囚です。

 そして、バビロンの王はコンヤ=ヨヤキンに替えて叔父マタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせました(同17節)。バビロンによる傀儡政権が誕生したわけです。21歳でバビロン王の思惑で王となったゼデキヤにとって、国内を掌握するのは容易いことではありませんでした。

 イスラエルには親エジプト派の高官たちがいて、エジプトと手を結んでバビロンに背くようゼデキヤに圧力をかけます。またエジプトも、バビロンに対抗するためにイスラエルをはじめパレスティナ諸国に同盟を呼びかけます。そのような動きに負けて、ゼデキヤはついにバビロンに反旗を翻します。

 列王記下24章20節の「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった。ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻した」という記述は、主がエルサレムとユダを御前から捨て去るために、ゼデキヤを頑なにしてバビロンに背かせたと読めます。 

 バビロンの王ネブカドネツァルは、全軍を率いてエルサレムを攻めます(同25章1節以下)。エルサレムはその攻撃に対し、2年の長きにわたり持ちこたえました(同2節)。三方を谷に囲まれているエルサレムは、確かに「シオン=要害」と呼ばれるにふさわしい都でした。

 その間、エジプトがエルサレムに援軍を送ったことがあります。紀元前588年のことです。それが5節で「折しも、ファラオの軍隊がエジプトから進撃してきた」と言われていることです。そのため、バビロン軍は一旦エルサレムの包囲を解き、エジプト軍を迎撃するために向かいます。

 ちょうどその頃、ゼデキヤがエレミヤのもとに使いを遣わして、「我々のために、我々の神、主に祈って欲しい」(5節)と頼んでいたのです。日頃、エレミヤの預言には耳を貸そうともしていなかったのに(2節参照)、バビロン軍の包囲を受けて、溺れる者が藁をつかもうと、苦しいときの神頼みに走ったわけです。

 かつて、アッシリア軍がエルサレムを攻め囲んだときのこと(列王記下18章13節以下参照)、ヒゼキヤ王が預言者イザヤに執り成しの祈りを依頼します(同19章1節以下)。すると、クシュの王ティルハカが戦いを交えようと軍を進めているという知らせがアッシリア王のもとに届きます(同9節)。

 それを聞いたアッシリア王は、それで軍を引いて帰国したというのではなく、さらにヒゼキヤを脅し、降伏させようとします(同10節以下)。強く脅せば、感嘆に陥落させられると考えたのでしょう。そして、ユダを片付けたうえで、ティルハカと対峙しようと考えていたのではないでしょうか。

 アッシリア王の脅迫を受けて、ヒゼキヤは主の前に祈りをささげます(同15節以下)。それは、アッシリア王がいける神を侮り、罵っている言葉をきき、そのようなアッシリア王の手から救い、地上のすべての王国が主こそ神であることを知るに至るようにという祈りでした。

 すると主はイザヤに「彼(アッシリア王)が都に入城することはない、そこに矢を射ることも、盾を持って向かって来ることもない」(同32節)、「わたしはこの都を守りぬいて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために」(同34節)とヒゼキヤに告げさせます。そしてその夜の内に主の御使いがアッシリア軍を撃ち、全滅させたのです(同35節)。

 ゼデキヤは、そのときのような展開になることを期待していたのではないでしょうか。しかしながら、事態はそのようには動きませんでした。主はエレミヤに「お前たちを救援しようと出動したファラオの軍隊は、自分の国エジプトへ帰って行く。カルデア軍が再び来て、この都を攻撃し、占領し火を放つ」(7,8節)と告げました。

 エジプト軍の進撃でエルサレムを包囲していたバビロン軍が撤退したとき、エレミヤは郷里の親族の領地を相続するため、ベニヤミンの地に行こうとしたのを、カルデヤ軍に投降しようとしていると誤解され、無実の罪で書記官ヨナタンの家に監禁されました(11節以下、15節)。

 そのときにゼデキヤがエレミヤを宮廷に呼び、冒頭の言葉(17節)のとおり、「主から何か言葉があったか」と尋ねます。監禁された苦しみから解放されるために、ゼデキヤのためになる預言が引き出せないかと期待していたのかも知れません。けれども、エレミヤの答えは、「バビロンの王の手にあなたは渡されます」というものでした。

 王に気に入られる言葉を語らないエレミヤは、その後も監禁生活が続きます。偽りの預言者は、自由に行動しています(19節参照)。ゼデキヤに限らず、私たちも、自分の気に入らない言葉は、たとい真実であっても、それに耳を傾けることは困難です。嘘でも、自分に快い言葉を聞きたいと思うのです。

 ゼデキヤは、エレミヤを書記官ヨナタンの家の地下牢に戻さず、自分の監視下に置き、食べ物を与えました。あるいは、洗礼者ヨハネを監禁していたヘロデのような心境だったのかも知れません(マルコ6章17節以下参照)。しかし、大切なことは、私たちの気に入る言葉が聞けるかどうかではなく、真実な主の言葉に耳を傾け、その導きに忠実に従うことなのです。

 「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ書12章2節)と言われます。

 日々主の前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。その導きに従い、喜びと感謝をもって歩みましょう。

 主よ、あなたの御言葉を聴かせてください。それによって御旨を悟り、真理のうちを歩むことが出来ますように。あなたの恵みを与えてください。それによって御心を行い、主の御名の栄光を表すことが出来ますように。 アーメン