「このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。」 エレミヤ書36章24節

 1節に「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年」とあるのは、紀元前605年のことで、バビロンがカルケミシュでアッシリア・エジプト同盟軍を撃破してメソポタミア地域を支配下に治め、シリア・パレスティナへの進軍を始めた時期です。

 主がエレミヤに「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」(2節)と命じられました。「ヨシヤの時代」は、1章2節の「その治世の第13年」(紀元前627年)ごろということで、それから20年余りに亘り、エレミヤは預言者としての務めをなしてきたのです。

 エレミヤの預言がすべて書き記されることで、「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」(3節)と言われました。そこで、エレミヤはネリヤの子バルクを呼び、巻物に口述筆記させます(4節以下)。こうして、エレミヤ書のプロトタイプが出来ることになりました。

 「ヨヤキムの治世の第5年9月」(9節)、それはエレミヤの預言が筆記されて1年余り後(1節参照)の、紀元前604年12月ごろのことです。そのとき「エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食する布告が出され」(9節)ました。

 バビロンとその連合軍がカルケミシュにおける勝利、そしてパレスティナに向けて進軍を開始しているというニュースが届いたので、やがて訪れるであろう国の危機にあたってユダのすべての民に、主の前に断食して祈るよう告げ広められたということです。

 そしてそのとき、主の神殿に集まって来る人々に、エレミヤが書き留めさせた主の言葉を読み聞かせました。エレミヤはそのとき、神殿への出入りが禁じられていました(5節)。ヨヤキム王にとってエレミヤは好ましからざる存在で、神殿でエレミヤの言葉をユダの民に聞かせたくなかったのです。そこで、彼の預言が書き留められ、バルクがそれを読み聞かせることになったのです。

 バルクは、「書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々の読み聞かせ」(10節)ました。ゲマルヤの父シャファンも書記官で、ヨシヤ王に仕え(列王記下22章3節以下)、祭司ヒルキヤが見つけた律法の書(申命記と考えられる)を王のもとで読み上げ、女預言者フルダのもとに祭司ヒルキヤらと共に遣わされ、主の託宣を求めています(同14節以下)。

 あるいは、そのときの再現、即ち、ヨヤキム王が読み聞かせられるエレミヤの預言を聞いて衣を裂いて悔い改めて主に立ち帰り(列王記下22章11,12節参照)、主の御心を尋ねるようになることを期待して、シャファンの子ゲマルヤが自分の部屋を提供し、預言の書を読ませたのかも知れません。

 それを聞いたゲマルヤの子ミカヤは、王の高官たちにそれを伝え、そこでバルクはもう一度読みます(13節以下)。12節に記されている高官たちについて、詳細はほとんど不明ですが、彼らは「この言葉はすべて王に伝えねばならない」(16節)と言います。彼らはゲマルヤと同様のことを考え、期待したのではないでしょうか。

 しかし、それと同時にヨヤキム王の日頃の言動を知る高官たちは、エレミヤの預言の言葉を聞いたヨヤキムが「書記バルクと預言者エレミヤを捕らよ」(26節)と言うだろうとも考えて、彼らに危害の及ぶのを恐れ、「あなたとエレミヤは急いで身を隠しなさい」(19節)とバルクに告げます。

 宮殿の冬の家にいた王の前で、エレミヤの預言が記された巻物が読み上げられます(21節)。王は、読む端からその巻物を切り裂き、暖炉の火にくべてしまいました(23節)。単にエレミヤの言葉に腹を立てたというようなことではなく、その言葉を無力化するために、侮辱的な扱いをしたのです。

 彼らは、冒頭の言葉(24節)のとおり、エレミヤの言葉を聞きながら、だれも神の裁きを恐れず、ゲダルヤやその子ミカヤ、王の高官たち、そして何より主ご自身が期待しておられたような、衣服を裂いて悔い改め、「悪の道から立ち返ろう」(3節)というそぶりも見せませんでした。

 その時、ヨヤキムは何を拠り所に、そのような振る舞いに及んだのでしょうか。それはここに記されてはいませんが、それが、生ける水の源である主を捨てて無用の水溜を掘り、しかもそれは、水をためることのできないこわれた水溜だったということです(2章13節)。

 ここに、ヨシヤ王と書記官シャファン、ヨシヤの子ヨヤキムとシャファンの子ゲマルヤという2世代の王と書記官の組み合わせがあります。しかしながら、書記官が伝えた神の言葉に対する王の対応は、全く違いました。ヨシヤの子ヨヤキムは、シャファンの子ゲマルヤがエレミヤの預言が記された巻物を燃やさないようにと懇願するのに、耳を貸しませんでした(25節)。

 ヨシヤ王について「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(列王記下23章25節)と、最大限の賛辞が贈られています。

 ですが、続く同26節には「(ヨシヤの祖父)マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとはなさらなかった」と報告されています。ヨシヤ王の悔い改め、徹底的な服従も、焼け石に水ということなのでしょうか。

 しかし、エレミヤに語りかけられた3節の主の言葉からすれば、いかに焼け石に水であっても、続けていけばいつか焼け石の熱を冷まし、炎を消すことが出来るということになるでしょう。けれども、ヨシヤの子ヨヤキムは、主の言葉に耳を傾けようともしません。逆に、火に油を注ぐような振る舞いをします。

 これが、31章29節で「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と言われた、旧い契約に基づいて、先祖の罪で子孫が祟られるという、罪の呪いでしょう(出エジプト記20章5節)。

 けれども、主なる神は御子キリストをこの世に遣わされ、罪の呪いを断ち切って「新しい契約」(31章31節)を結ぶために、十字架で贖いの業を完成してくださいました。主イエスを信じる信仰により、誰もがその救いに与ることが出来るようにしてくださったのです。

 主イエスが開いてくださった新しい道を、主を信じて真心から神に近づきましょう(ヘブライ書10章20,22節)。互いに愛と善行に励むように心がけ、共に集まり、励まし合いましょう(同24節)。主イエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう(同13章15節)。

 主よ、ヨヤキムはあなたの御言葉を暖炉の薪程度にしか考えず、その結果、そこに記されていた罪の呪いを身に受けることになりました。御言葉を蔑ろにし、わがままに振る舞う愚かな私たちを憐れんでください。常に聖霊に満たされ、心から御名を褒め称えつつ、御言葉の導きに従って歩むものとしてください。御名が崇められますように。 アーメン