「ところがお前たちは、またもや、態度を変えてわたしの名を汚した。彼らの望みどおり自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分としている。」 エレミヤ書34章16節

 バビロンによる攻撃が続く中、エレミヤに主の言葉が臨みました(1節)。それは、ゼデキヤ王がバビロンの捕囚となること(3節)、しかし、平和(シャローム)のうちに死に、葬りの儀が行われるということでした(5節)。

 3節の言葉は、32章4,5節とほぼ同じものです。しかし、5節はその言葉通りに実現しませんでした。39章4~7節、52章7~11節に、その実態が記されています。そのことを、エレミヤの預言が外れたと解する向きもあるようですが、38章17,18節などとの関連で、エレミヤの預言を受けてバビロンに降伏するならばという条件付きだったのではないかと思います。

 しかしながら、8節以下の段落には、ゼデキヤ王が主の言葉に聞き従う思いのないことが明らかにされています。8節に「ゼデキヤ王が、エルサレムにいる民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した」という言葉が記されています。

 申命記15章12節に、ヘブライ人の奴隷を買うなら、7年目には無償で自由の身として去らせなければならないという規定があります。また、レビ記25章39節以下に、同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年の後、家族のもとに帰ることが出来ると規定されています。

 これらの規定は、かつてイスラエルの民がエジプトの奴隷であったとき、主なる神が強い御手をもって彼らを救い、約束の地へ導き入れてくださったことを忘れず、更に主の恵みに与らせるために定められたものでした(申命記15章14節以下、18節参照)。しかしながら、民はこの規定を守ってはいませんでした(14節)。

 ここで、この契約が成立した背景には、律法の規定を守ることで、バビロン軍の攻撃(7節)からエルサレムの都が守られるのではないかという期待があったものと思われます。また、エルサレムの都がバビロン軍に包囲されて兵糧攻めが行われ(列王下25章1~3節)、奴隷を養うことが困難になったということも考えられます。

 ところが、この契約は直ぐに反故にされます。一旦自由の身として去らせたものを、再び奴隷とします(11,16節)。それは、エルサレムを包囲していたバビロン軍が、その包囲を解いて撤退したためでした(21節)。というのは、バビロン軍を背後から攻めるため、イスラエル待望のエジプト軍が北上して来たからです。

 それにより、かつてヒゼキヤの代にエルサレムを包囲したアッシリア軍が全滅させられたように(列王下19章)、バビロン軍が敗走して平和が回復するなら、奴隷を解放するという契約は必要ない、元通りの生活が出来るようになるなら、やなり奴隷は必要だというわけです。

 これは、エジプトの王が初子が打たれるという苦しみを味わって、イスラエルの民を解放した後(出エジプト記12章29節以下)、再び頑迷になって(同14章5節)彼らの後を追い(同6節以下)、結局葦の海の中に投げ込まれて、一人残らず命を落とした(同27,28節)という記事を思い起こさせます。

 身勝手な振る舞いに対して、主は冒頭の言葉(16節)のとおり、「お前たちは、またもや、態度を変えてわたしの名を汚した」と断じ、「お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である」(17節)と宣告されます。即ち、主の守りが彼らを離れ、彼らは裁かれるわけです。

 「剣、疫病、飢饉に渡す」というのは、これまで何度も語られて来た裁きの言葉です(14章12節、21章9節、24章10節、27章8節、29章17節、32章14,36節)。 剣を逃れても、疫病や飢饉が待ち受けていて、死を免れることは出来ないということです。

 契約を結ぶとき、彼らは子牛を二つに切り裂き、その間を通るという儀式を行いました(18節)。これは、アブラハムが神と契約を結ぶときにも行われた方法です(創世記15章9節以下17,18節)。もしも契約を破るようなことをすれば、その身が二つに裂かれることになるという呪いの誓いなのです。だから、「あの子牛のようにする」と言われるのです。

 そして、契約に参加したユダとエルサレムの貴族、役人、祭司、および国の民のすべてが敵に手に渡され、その死体は鳥や獣の餌食となると告げられます(20節)。そして、それを実行するために、神はゼデキヤ王と貴族たちを敵の手に渡し、エルサレムの都を占領して火を放ち、ユダの町々を廃墟とするよう命令を下すと言われました(22節)。

 振り返って考えてみるまでもなく、苦しいときの神頼みで、祈りをかなえて欲しくて神に善行などを誓ったりしますが、苦しみが去るとその誓いを忘れ、実行を怠ったという経験があります。私には、ゼデキヤを非難する資格はありません。

 あらためて、主なる神がイスラエルの民に同胞を奴隷とすることを禁じ、奴隷を解放するように命じたのは、彼らが主の憐れみによってエジプトでの奴隷生活から救い出されたからでした(申命記15章15節)。私たちが主の憐れみに与ったのは、その憐れみを受けて他者と愛し合う生き方をするようにと、導かれているわけです。

 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」(ルカ6章36,37節)と主イエスが教えておられます。

 ペトロも「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(第一ペトロ3章9節)と告げています。

 主の救いに与ったアブラハムの子として、隣人を愛し、常に祝福を祈るものとならせていただきましょう。 

 主よ、ここに見るゼデキヤの罪は、あなたの恵みに慣れ、自分のなすべき務めを忘れて人を裁き、不平を言う私たち自身の罪の姿です。どうか私たちの罪を赦してください。心を清め、新しい霊を授け、人を裁かず、罪人と定めず、互いに赦し赦され、祝福を祈り合う者とならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン