「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」 エレミヤ書33章3節

 冒頭の言葉(3節)で「わたし」と言われているのは主なる神で、2節に「創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方。その御名は主」と紹介されています。万物の創造者であり、主である神が、「わたしを呼べ」、即ち、祈り求めよと言われるということは、その祈りを聞いてくださるということです。

 そして、「あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」というのですから、今までにない新しい主の御業が告げられるというわけです。しかも、主の御言葉は必ず実現するのですから(創世記1章3節、詩編33編6,9節、イザヤ55章11節、ルカ1章45節参照)、かつてなかった創造的な御業が起こされるということになります。

 あらためて、ここで「わたしを呼べ」と言われるということは、イスラエルの民が主なる神を呼んでいなかった、主に祈りをささげていなかったということでしょう。エルサレムがバビロン軍に包囲されて、命運尽きかけているときにも、なおまことの神に頼らず、自分たちの力に加えてエジプトの援軍に期待し、その上、異教の偶像に祈り願っていたというのでしょうか。

 だからこそ、主なる神の怒りを買い、亡国の憂き目を見、捕囚とされる屈辱を味わわなければならないようにされたわけです。「彼らはカルデア人と戦うが、都は死体に溢れるであろう。わたしが怒りと憤りをもって彼らを打ち殺し、そのあらゆる悪行のゆえに、この都から顔を背けたからだ」(5節)と言われます。

 けれども、それによってイスラエルを破壊し尽くし、民をこの世から完全に消し去るというのではありません。そのことについて、31章2節に「民の中で、剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける」という言葉がありました。

 荒れ野に引き出されることは、絶えず命が脅かされる、死に直面させられるということです。しかし、バビロンという荒れ野に導かれた者、即ち、バビロンの捕囚とされた者はその地で恵みを受け、それを拒む者は剣で滅ぼされてしまうということです。

 主イエスは、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた後、聖霊の導きで荒れ野に行かれ(マタイ4章1節)、悪魔の誘惑を受けられました(同3節以下)。「誘惑をうける」(ペイラゾー)は、「試みにあう」という言葉です。艱難辛苦を試練と考えて耐え忍ぶならば、豊かな成長の時となり、信仰を確固たるものとするでしょう。

 ヘブライ書5章8節には「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と記されています。神の御子といえども、荒れ野に行かなければ、その苦しみを経なければ、学び得ないものがある。従順を学ぶために、多くの苦しみを味わわなければならなかったということです。

 イスラエルの民は、バビロン捕囚という荒れ野の苦しみを経て、主への従順を学び、予想もしていなかったところからの大いなる恵みに浴することになると言われているわけです。そのときの鍵となるのが、そこで主の御名を呼ぶこと、主なる神に祈り求めることです。

 故榎本保郎先生が、列王記上18章のエリヤとバアルの預言者との戦いの箇所で、「彼(エリヤ)は壊された主の祭壇を修復した」(30節)という言葉から、「あなたの祈りの祭壇は壊れていませんか。主の御名を呼ぶ祈りが絶えず芳しい香りとして主の御前に立ち上っているでしょうか。実に、壊れやすいのは祈りの祭壇です」と語られていました。もっと熱く、信仰をもって祈る者になりたいと思います。

 6節に「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復をもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す」と語られています。30章17節にも、「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう、と主は言われる」と告げられていました。

 ペトロがイザヤ書53章5節を引用しながら、「(キリストが)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に死んで、義に生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(第一ペトロ書2章24節)と語っています。

 こうして、私たちの身代わりとなられたキリストの受難、荒れ野の苦しみを通して、私たちに癒やしと平和が与えられたのです。

 詩編91編14~16節にも「彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」という言葉があります。

 日々主の恵みに与り、喜びと感謝を込めて絶えず主の御名を呼び、心からなる祈りと願いをささげましょう。  

 主よ、あなたは今も生きて私たちと共におられ、私たちの内に働いていてくださいます。絶えず、御名を呼び求めます。感謝をもって祈りと願いをささげます。私たちの人生に、この町に、日本に、不思議な大いなる御業を表してください。主イエスを信じる信仰により、神の恵みと助けをしっかりと受け取ることが出来ますように。 アーメン