「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」 エレミヤ書22章3節

 これは、ユダの王の宮殿で語られた預言者エレミヤの言葉です(1節)。ユダの王とは、誰と特定されてはいません。注解者は多く、これはヨヤキム王に向けて語られた預言と考えているようですが、すべての王が聞くべき主の御言葉と考えてよいのでしょう。同様の言葉は、21章11,12節にも記されていました。

 冒頭の言葉(3節)で主が「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え」と言われています。「正義」は「ミシュパート(「裁き、公正」の意)」、「恵みの業」は「ツェダカー(「義、正義、正しさ」の意)」という言葉です。口語訳は「公平と正義」、新改訳は「公義と正義」、岩波訳、聖書協会共同訳は「公正と正義」と訳しています。

 「ツェダカー」でいう正しさとは、倫理道徳的な振る舞いの正しさというより、他者との正しい関係のことを表しています。主なる神との関係が正しくされるのは主の恵みによるということで、新共同訳は「恵みの業」と訳しているわけです。

 搾取されている弱い立場の者として、「寄留の外国人、孤児、寡婦」が挙げられます。申命記10章18節に「(主は)孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」とありました。ここに、「権利」と訳されている言葉が「ミシュパート」です。社会的な弱者の権利を守ることが、主なる神の望まれる「公正」な社会なのです。

 そして主なる神は、「もし、あなたたちがこの言葉を熱心に行うならば、ダビデの王位に座る王たちは、車や馬に乗って、この宮殿の門から入ることができる、王も家臣も民も。しかし、もしこれらの言葉に聞き従わないならば、わたしは自らに誓って言う、と主なる神は言われる。この宮殿は必ず廃墟となる」(4,5節)と告げられます。

 この後、3人の王たちに対する言葉が告げられます。即ち、10,11節に「ヨシヤの子シャルム」(列王記下23章30節以下ではヨアハズ)、13~19節に「ヨシヤの子ヨヤキム」(列王記下23章34節以下参照)、そして、24節以下に「ヨヤキムの子コンヤ」(列王記下24章8節以下ではヨヤキン)に対する言葉があります。

 いずれも、厳しい裁きの言葉です。彼らが冒頭の言葉で命じられているところを熱心に守り行わなかったわけです。列王記の記事によれば、3人とも、「先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った」(列王記下23章32,37節、24章9節)と言われています。

 シャルム(=ヨアハズ)とヨヤキムの父ヨシヤは、エジプトの王ネコとの戦いで戦死しました(同23章29節)。そこで、ヨシヤの子シャルムが王となりますが(同30節)、3ヵ月後にファラオ・ネコによって退位させられ、代わってエルヤキム改めヨヤキムが即位します。一方、シャルムは、エジプトに連れて行かれ、そこで死にました(11,12節、列王記下23章34節)。

 列王記下23章35節に「ヨヤキムはファラオに銀と金を差し出したが、ファラオの要求に従って銀を差し出すためには、国に税を課さなければならなかった」とあることから、あるいは、ヨヤキムがファラオに金銀を差し出して、それによって王位を手に入れたのではないかとも考えられます。

 その上、「恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を立て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない」(13節)と語られています。つまり、自分の王宮を建てるために民を徴用したのですが、預言者はここで、同胞をまるで奴隷のように扱ったと、王を糾弾しているわけです。

 そのような悪事のために、彼の死を悼む者はなく、遺体はエルサレム門外へ投げ捨てられると言われます(18,19節)。ただ、列王記下24章6節には、「ヨヤキムは先祖と共に眠りにつき、その子ヨヤキン(=コンヤ)が代わって王となった」とあり、この表現は、ヨヤキムは自然死で、王墓に葬られたということを示します。

 エレミヤの預言が文字通り実行されたとすれば、それは恐らく、エルサレムがバビロンの手に落ちたとき、王墓が荒らされて、ヨヤキムの亡骸が投げ捨てられたということなのでしょう。

 その子ヨヤキン(=コンヤ)は、即位3ヶ月でエルサレムを包囲したバビロン軍に投降し、捕囚となります(第一次バビロン捕囚:紀元前597年、24節以下、列王記下24章10節以下)。

 ここにその記述はありませんが、ヨヤキン(=コンヤ)がバビロンに連れて行かれた後、代わって王とされたのは、マタンヤ改めゼデキヤです(列王記下24章17節)。彼は、ヨヤキンの甥ということですから、ヨシヤの子で、ヨヤキンの父ヨヤキムやヨアハズ(シャルム)と兄弟ということになります。

 そして、主の目に悪とされることをことごとく行い続けている王たちとユダの民に対して主は憤られ、その御前から捨て去られる事態となり、ゼデキヤがバビロンに反旗を翻します(同20節)。そのために、攻め寄せたバビロン軍によってエルサレムは陥落、都は徹底的に破壊され、ゼデキヤを初め多くの者が捕囚となります(同25章1~21節)。 

 こうして、「もしこれらの言葉に聞き従わないならば、わたしは自らに誓って言う、と主なる神は言われる。この宮殿は必ず廃墟となる」(5節)と語られた主の言葉が実現することになりました。あらためて、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」(1章12節)と告げられた主の言葉を思い起こします。

 しかし、憐れみに富む神は、切り倒したダビデの家から、御子イエスを生まれさせられました。その王宮は家畜小屋、揺り籠は飼い葉桶でした。そして、十字架の死によって、新しい契約を結ばれます。この正義と恵みの業により、主イエスを信じるすべての人々が永遠の御国の門をくぐることが出来るようになったのです。ハレルヤ!

 この恵みを無駄にせず、すべての人々がその恵みに与り、信仰によって神の公正と正義を豊かに味わうことが出来るよう、聖霊に満たされ、力を受けて、主の証人として用いていただきましょう。絶えず主の御言葉に耳を傾け、託されている主の御業に励む者となりましょう。

 主よ、あなたに背く罪を犯したのは、王だけではありません。その家臣も民もそうです。そして私たちも。けれども、計り知れない御愛により、罪赦され、永遠の命に与り、天に国籍を持つ神の子とされました。今、主イエスを心の王座に迎え、その御言葉に従います。聖霊に満たし、宣教の業に励む者としてください。御名が崇められますように。御心が行われますように。 アーメン