「あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデヤ人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。」 エレミヤ書21章8,9節

 ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルとマアセヤの子、祭司ゼファニヤを預言者エレミヤのもとに遣わし(1節)、「どうか、わたしたちのために主に伺ってください。バビロンの王ネブカドレツァルがわたしたちを攻めようとしています。主はこれまでのように驚くべき御業を、わたしたちにもしてくださるかもしれません。そうすれば彼は引き上げるでしょう」(2節)と言わせています。

 ここに言われる「マルキヤの子パシュフル」は、20章1節の「主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフル」とは別人です。マルキヤの子パシュフルは、ゼデキヤ王に仕える役人でした。彼は後に、他の役人たちと共にゼデキヤにエレミヤを処刑するよう進言しています(38章1,4節)。

 また「ゼデキヤ」は、第一次バビロン捕囚(紀元前597年)で捕囚となったヨヤキン王の叔父で本名をマタンヤと言います。ヨヤキンに代わり、バビロンの王ネブカドレツァルによって王位につけられ、ゼデキヤと名を改めさせられました(列王記下24章17節)。所謂、バビロンによる傀儡政治が行われることになったわけです。

 ところが、やがてゼデキヤはバビロンに反旗を翻します(同20節)。それは、重い税負担のためと、エジプトの援軍に期待してのことでした。しかし、列王記の記者は、「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった」(同20節)と、その理由を説明しています。

 イスラエル軍は、エルサレムを包囲したバビロン軍の攻撃によく耐えて戦いましたが(同25章1,2節)、兵糧がつきて(同3節)都の一角が破られて(同4節)、ゼデキヤは捕えられ(同6節)、町は焼かれ(同9節)、民は捕囚とされました(同11節)。これが、第二次バビロン捕囚(紀元前587年)です。

 ということは、ゼデキヤ王がエレミヤに使いを送ったのは、エルサレム陥落直前の、エジプトが頼りにならず、万策尽きたときだったということではないでしょうか。そこで、溺れる者は藁をも掴む、苦しいときの神頼みとばかり、預言者エレミヤを頼み、主に縋ろうとしたのです。

 それは、ヒゼキヤの代に、アッシリア軍がエルサレムを囲んだとき、イザヤに執り成しを頼むと、主なる神がヒゼキヤの願いを聞いてくださり、アッシリア軍は壊滅したという出来事の再現を求めているかのようです(列王記下19章参照)。

 しかしながら、主は既にユダを断罪して「疫病に定められた者は、疫病に、剣に定められた者は、剣に、飢えに定められた者は、飢えに、捕囚に定められた者は、捕囚に」(15章2節)と判決が言い渡されています。だから「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい」(同1節)とさえ語られていました。

 それを確認するかのように、冒頭の言葉(8,9節)のとおり、主はエレミヤに「あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデヤ人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる」と言われました。

 15章2節の言葉と語順は異なるものの、エルサレムを襲う災いは同じです。つまり、主なる神はゼデキヤ王の苦しいときの神頼みを突っぱねられたのです。主がエルサレムの民の前に置かれた二つの道、バビロンに降伏するという命の道と、エルサレムに留まって戦いと飢饉と疫病によって死ぬ道、この二者択一は、どちらを選んでも「幸い」とは程遠いものがあります。

 エレミヤは、バビロンによってエルサレムの都が剣で打たれ、火で焼き払われてしまうことが、主なる神の御心と信じており、それゆえ、バビロンに降伏し、捕囚とされることこそが、生き残る唯一の道と考えているのです。

 バビロンに行けば、何とかなるということではありません。そうすることが、悔い改めて主に立ち帰り、御心に従って歩むことであり、それによって、命の恵みに与らせて頂く道が開かれるということです。そう信じるからこそ、このように語っているのです。

 言うまでもなく、バビロン行きが幸せを約束してくれるわけではありません。捕囚の生活が安楽であるわけがありません。それは、彼らの背きの結果だからです。だから、火事場で焼け出された人のようにというのは、語弊があるかも知れませんが(第一コリント書3章15節参照)、まさに、命だけは助かるという状況です。

 その苦境の中で、もう一度主なる神を信じ、その御言葉に聴き従うことが求められます。そのように、試練を通して謙遜を学び、主の力強い御手の下で自分を低くすれば、キリストの日に、高めて頂くことが出来ます(第一ペトロ書5章6節)。

 日々主の御言葉に耳を傾けましょう。御心を弁えてそれを実行する者となれるよう、聖霊の導きを祈り求めましょう。

 天のお父様、主イエスと共にその軛を負い、キリストの柔和と謙遜を学ばせてください。そうして、主にある平安と喜びを得させてください。いつも目覚めて信仰にしっかり立ち、悪しきものの誘惑に陥ることがありませんように。主の口から語られる言葉で生きる者としてください。栄光と誉れが世々限りなく神にありますように。 アーメン