「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕えられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。」 エレミヤ書20章7節

 預言者エレミヤが、主の神殿の最高監督者の祭司パシュフルによって鞭打たれ、拘留されました(2節)。それは、トフェトばかりでなく神殿の庭でも、エルサレムとそれに属するすべての町々に災いが下されると告げたからです(19章10節以下、15節)。パシュフルは、神殿警護のため、主の霊によって語る預言者をも監督する権限を有していたわけです(29章26節も参照)。

 それに対してエレミヤは、「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す」(3,4節)と語ります。

 エレミヤ書で「バビロンの王」への言及は、ここが初めてです。神殿の秩序維持のために権力を行使するパシュフルに対し、主なる神の御言葉に耳を傾けないエルサレムの町は破壊され、パシュフルら宗教指導者たちのみならず、ユダの人々がバビロンの捕囚となるというのです。 

 本来、主なる神がその御名をおき、民のための執り成しの祈りが捧げられる神殿、そして、神の御言葉が説かれるべき場所で、真の神を知り、その御言葉に耳を傾けることが出来ないという状況が、そこにあります。だから、エレミヤは、王や祭司、預言者たちを糾弾する言葉を語らざるを得ないのです。

 それは、神殿でなされていることが、真の神を信じる信仰を妨げるものになってしまっているからです。主がパシュフルを「恐怖が四方から迫る(マーゴール・ミッサービーブ)」に改名されるというのは、何らかの語呂合わせがあるのではないかと思われますが、よく分かりません。パシュフルの存在、その務めが、エルサレムの脅威、恐れを引き起こすものとなっているわけです。

 パシュフルがエレミヤを鞭打ち、拘留したのは、エレミヤに預言することをやめさせるため、屈辱を味わわせようとしてのことです。それは勿論、エレミヤが望んでいることではありません。エレミヤの望みは、彼が語る預言を民が受け入れて、悔い改めることです。

 しかしながら、そういう結果を見ることが出来ません。むしろ、エレミヤが主の預言を民に告げれば告げるほど、民はますます頑なになっていくようです。冒頭の言葉(7節)の通り、語れば語るほど民に嘲られ、罵られ、苦しめられるのです。

 「あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて」という言葉から、あるいは、自分は主なる神に欺かれているのではないか、御用預言者を偽物だと糾弾している自分が、もしかすると偽物なのではないかと疑う思いが窺えます。 

 10節には「わたしには聞こえています、多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』と彼らは言う。『共に彼を弾劾しよう』と。わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている」とあります。

 パシュフルに向けて語った言葉が、多くの人々からエレミヤに向かって投げ返されています。つまり、イスラエルの民は、まさにエレミヤこそ偽りの預言者と考え、主の呪いはむしろエレミヤの上に臨むと考えているわけです。

 そのような民の反応を受けて、エレミヤは、もう主の預言を語り告げるのはよそう、彼らに主の御言葉を伝えても無駄になるだけだと考えるようになります。9節に「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい」という言葉が記されています。

 「口にすまい」、「語るまい」というところに用いられているのは、いずれも未完了形の動詞です。つまり、エレミヤはこれまで何度も、もう口にすまい、語ることはやめようと考えたのです。民の拒絶に合う度にその思いは強まって、ここまで来たのです。

 それなのに、黙っていられません。語るまいと思うエレミヤを、その都度主がせっつき、語らずにはおれなくするのです。だから、「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります」(9節)というのです。

 「わたしの負けです」は、7節の「あなたの勝ちです」を受けて語られているのですが、用いられているのは、「ヤーコール」(「出来る、耐える、獲得する、勝利する」の意)という同じ動詞です。あなたは出来る、わたしは出来ない、あなたは勝利する、わたしは勝利しないといった言葉遣いです。

 語るまいという思いと、語らざるを得ないという思いの板挟みにあって、預言者エレミヤは、「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない」(14節)と語ります。

 この言葉は、ヨブ記3章3節以下の言葉を思い起こさせます。このような事態に陥って、エレミヤは、これでは死んだ方がましだと考えたのでしょう。だからといって、自殺を考えているわけではありません。消極的ながら、自分の思いもすべて、神に委ねているのです。

 M.ルターが若い頃、「わたしには説教者は務まりません。三ヶ月以内に死ぬでしょう」と言ったところ、先輩のシュタウピッツ教授が「君がそれで死ぬというなら、死んだ方がよかろう。ただ、神に対する務めを忠実に行い、生き死にも神の御手に委ねるべきである」と忠告しました。それ以来、務めに忠実に歩み、あの偉大な宗教改革を成し遂げる者となったということです。

 エレミヤも、このような経験から、自らに絶望することによって、もう一度主なる神に従い、御言葉の務めに生きる道を見出したのでしょう。それが、「あなたの勝ちです」(7節)、「わたしの負けです」(9節)という言葉になったのです。

 日ごとに主の御言葉に耳を傾けながら、自分に委ねられている主の使命に、喜びと感謝をもって忠実に仕えて参りましょう。

 主よ、あなたとあなたの御言葉を信頼し、その導きに従います。どうか弱い私たち、不信仰な私たちを憐れんでください。喜びと感謝をもって信仰に歩むことが出来ますように。信仰の創始者であり、完成者である主を常に仰ぎ見て、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜かせてください。 アーメン